小規模邸宅の伏見殿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 04:46 UTC 版)
貞成親王が、まだ少年だった子の後花園天皇に読ませるために書いた『椿葉記』にはこうある。 次の年六月に伏見へ還御なる、いまはもとの御所もなし、御座あるへき所なくて、故三位局〈杉殿と申〉里にて宝厳院と申比丘尼所になされたる所を、まつ御所になさる、狭少不思議なる草庵のかりそめなからいまに御所にであるなり。 画像a30は応永24年(1417)段階の伏見殿・寝殿であるが、足利義教を迎えるまでは「寝殿」を名乗ることを憚っている。この伏見宮貞成親王の住まいは、元は親族の女性の隠居所であった。先に平面の変化で「伏見殿小御所」の平面図(画像a13)を上げたが、その頃の院御所は既に焼失している。『看聞日記』、応永23年(1416)11月14日条、18日条の仏事の室礼では「二ケ間」とか「四間」「二間」という言い方を用いている。 「四間」とは二間×二間、「二間」とは二間×一間で、グリッドひとつを「間」と呼んでいる。それを「坪」と呼ぶこともあるので、一般用語ではないがとりあえず「間坪表記」としておく。しかし「母屋・庇の構造」(画像110)を用法としてかろうじて留め、仏寺道場とする場合は客殿と常御所の間の障子を撤去し八間としている。中門を二間×二間としている処、から柱間寸法は7~7.5尺程度、あるいは貞成親王自身が「狭少不思議なる草庵」と書いており、それ以下であった可能性もある。
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