小笠原康廣とは? わかりやすく解説

小笠原康広

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/02 13:43 UTC 版)

 
小笠原 康広
時代 戦国時代安土桃山時代
生誕 享禄4年(1531年
死没 慶長2年12月8日1598年1月15日
改名 康広、播磨入道、法名:宗有(寛政重修諸家譜)
別名 六郎、兵部少輔播磨守
主君 北条氏徳川氏
氏族 京都小笠原氏
父母 父:小笠原元続
正室:北条為昌息女・種徳寺殿
長房、女(伊東政世正室)、
女(蒔田頼久正室)
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小笠原 康広(おがさわら やすひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将北条氏徳川氏の家臣。小笠原元続の子。

生涯

享禄4年(1531年)、小笠原元続の子として誕生。北条氏綱の母方の縁戚にあたる。

北条為昌の娘で主君・北条氏康の養女である種徳寺殿[注釈 1]を正室に娶り、さらに「氏」から一字を拝領して「康広」と名乗ることを許されるなど準一門の厚遇を受けた。

武家故実(武家有職故実)に精通して、武者奉行や飯泉町(小田原城城下町の1つ)奉行を務める。天文年間末期より活躍し、永禄2年(1559年)の役帳では、「小笠原六郎」が相模国西郡矢畑郷にて180貫文を与えられていたことが記されている。

天正2年(1574年)には子の孫増丸(後の長房)に家督を譲った。同8年(1580年)には遠江国浜松城に使者として派遣され徳川家康に拝謁し、守家太刀と吉平[注釈 2]の刀を下賜された[2]。更に同11年(1583年)の家康の娘・督姫北条氏直への輿入れの際には浜松城まで督姫を迎えるための使者として派遣された[2]

天正18年(1590年)の豊臣秀吉小田原征伐後、氏直に従って高野山に入り出家して播磨入道と号した。氏直死後の文禄元年(1592年)、加賀爪政尚の勧めで上洛して徳川家康に仕えた。

慶長2年(1598年12月8日死去、享年67[2]

脚注

注釈

  1. ^ 寛政譜』により、かつては氏康の実娘とみられていたが、それ以前にその事を記した記録はない。一方、彼女が再興した東京都港区赤坂の種徳寺は、元々為昌の菩提寺である小田原・本光寺の再興と伝えられているため、彼女の本当の父は早世した氏康の弟・為昌と考えられている[1]寛永2年6月5日1625年7月9日)没
  2. ^ 福岡一文字派の刀工

出典

  1. ^ 黒田 2018, p. 143-144.
  2. ^ a b c 堀田 1923, p. 1136.

参考文献

関連項目





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