小学校付設の「女紅場」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 16:33 UTC 版)
明治5年(1872年)に出された学制は「小学校」を規定し、これを尋常小学・女児小学・村落小学・貧人小学・小学私塾・幼稚小学に区分した。このうち「女児小学」は、尋常小学の教科のほかに女児に手芸を教えるというものである。しかし教科のほとんどが尋常小学と同じであること、一般民衆の間で女子教育の必要が感じられていなかったことから、女児小学の数は全国の小学校の0.5%に過ぎなかった。 この女児小学に類するものとして登場したものが「女紅場」であった。学制や教育令の枠外にある教育機関であり、それぞれの地元事情を反映して運営が行われた。 この類型は「市郡女紅場」、「市中女紅場」といった名称でも呼ばれる。行政的な観点から行われるケース(堺)や、生産活動を重視したい住民の要求から行われるケースもあった。 学費の払えない生徒のために習得した技術で作られた製品をもって学費の代替とする事例もあった。特に北近畿や長野県や北関東の養蚕地帯などに盛んに設置された。 京都府では、1874年(明治5年)に「女紅場規則」が制定され、府下の小学校に「女紅場」を付設することが奨励された。1875年(明治6年)、京都市の柳池小学校・初音小学校や、府下の木津小学校に「女紅場」が付設された。 小学校付設の女紅場は、学校制度が整備されるともに、小学校補習科や、小学校令によって「小学校二類スル各種学校」と位置付けられた徒弟学校(女子職業学校。手芸女学校、裁縫女学校などとも称した)や実業補習学校となった。1910年(明治43年)には高等女学校令の改正により「実科高等女学校」(家事裁縫などを教える実科のみを置く高等女学校)という形態が登場することになる。
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