導入 - 衰退の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 07:32 UTC 版)
口分田の祖型は、7世紀中葉の大化の改新頃に始まり、7世紀終盤の律令形成期に口分田制度が確立したと考えられている。記録上は、8世紀=奈良時代を通じて順調に農地の支給(班田)が行われているが、800年の記録を最後に班田は行われなくなった。これに伴い、口分田制度も急速に衰退したのではないかと見られる。このことは、口分田制度によらずとも一定の税収確保が可能となったことを示唆している。 ただし、班田が規定どおり行われていた時期においても全てが順調に機能していたわけではない。水田による班田が原則でありながら、水田の不足より陸田が混ぜられて支給されたり、地域の慣習法(郷土法)によって支給面積を削減されたり、遠方に口分田を与えられるケースもあった。特に志摩国では水田が極度に不足していることから伊勢国・尾張国の水田を口分田とする例外規定が認められていた。また、京の区域内も水田の耕作が禁じられていたため、口分田が設置されておらず、京に本貫を持つ京戸は畿内に口分田が与えられていた。また、遷都の際には偶々その予定地にあった口分田は収公されて替地が与えられていた。 また、口分田は原則として売買・譲渡・質入などが禁じられていたにもかかわらず、奈良時代後期頃から質入などの問題が発生しており、班田が順調に行われなくなると売買や譲渡なども行われるようになった。班田が行われなくなると、口分田も事実上農民の私有地化することになる。
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