対支基礎観念
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 01:18 UTC 版)
もっとも、多田は「孤掌不鳴」を座右の銘にしており、対支政策においても「日中の共存共栄を基調とする」と説いて、「対支基礎観念」というパンフレットを作成、配布していた。多田によれば、華北では少なからぬ日本人が中国人を侮蔑し、中には中国官憲を無視して悪事をなす者がいたため、日本人の自省を促す必要があったという。 「対支基礎観念」の要旨は、 日本人は過った優越感を捨てよ 中国の独立を尊重し、中国民族の面目を保持するよう心がけよ 日本の不正不義の取り締まり、不良日本人を即時追放せよ 職業的親日派を排撃せよ というもので、多田は実際に憲兵を使って密輸の取締等を行っていた。 このように日中親善を志した多田であったが、天津在任はわずか9か月で終わり、無念の帰国となった。 多田を標的としたテロ事件も起きた。1935年(昭和10年)12月17日、天津日本租界の支那駐屯軍司令官官邸の近くで、何者かが予め仕掛けた爆弾が炸裂し、中国人1名が重傷を負う事件があった。 なお、多田が現地の人から慕われていたことを示すエピソードとして、「駿様、御在任僅かに一ヶ年なりしも、天津市長をはじめ中国の要人の信望篤く、離任に際しては北京市長夫人主催の万寿山にての送別の宴など丁重なるお心づくし、感銘の至りなり」という睦夫人の回想がある。
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