家族背景・江木写真店
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 05:40 UTC 版)
儒学者江木鰐水のひ孫であり、江木写真店開設者として知られる貿易商・江木保男(1856-1898)の孫である。保男は商人として渡航経験があり、米国より写真機材をいち早く輸入し、弟の江木松四郎(1856-1900)をサンフランシスコに送って写真技術を学ばせ、 1884年に松四郎とともに神田淡路町に写真店を開いた。1891年には京橋区丸屋町に六層の塔を持つ支店を新築した。この六層の支店は「福山館」と称された。 父・江木定男は保男と官僚鶴田皓の娘・蝶子との一人息子で、一高、東京帝大を出て農商務省官吏となり、写真館の経営には参加しなかった。松四郎没後は、新橋店を継いだ。母ませ子(万世子)は、父の後妻・悦子の実妹で、愛媛県令をつとめた関新平の娘であり、異母姉に江木欣々がいる。ませ子、欣々ともに美人姉妹として知られ、ませ子は切手になったことで知られる鏑木清方「築地明石町」のモデルを務めた。江木家は裕福で、家事使用人が多い時で10人、少ない時で7~8人がいたという。父は1921年に結核のため35歳で亡くなるが、学生時代からの友人に安倍能成、小宮豊隆、野上豊一郎、尾崎放哉、岩波茂雄、荻原井泉水、中勘助といった実力者が多く、父没後も、それら友人たちが武彦を盛りたててくれた。姉に猪谷善一妻の妙子、双子の兄に生活評論家の江木文彦がいる。妙子によると、祖母の悦子と母のませ子は姉妹でありながら仲が悪く、生涯悶着の絶えない家庭だったという。江木自身は、ませ子について、「母の死は、母が築いた江木というわたくしたちの家族を核分裂させ、江木写真館との縁が切れ、兄は兄、姉一家は姉一家、わたくしはわたくしとなってしまいました」と述懐している。
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