宮刑と腐刑は別のものという説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 18:50 UTC 版)
「宮刑」の記事における「宮刑と腐刑は別のものという説」の解説
「宮刑」は文字通り宮中で召し使う「労働刑」であり去勢はそれに付随するものにすぎないのに対し、「椓刑・陰刑・腐刑」は去勢すること自体に主眼があり、古くは両者は本質的に異なる刑罰であった。その後、両者は次第に混同されて同じ刑罰の別名とされるようになった。後宮での労働刑に処せられた宦官(去勢者という意味でなく宮廷内での労働に従事する奴隷という本来の意味の宦官)が不祥事を起こすことを避けるためにあらかじめ去勢を付加したことから、両方の刑が混同されたのである。「宮刑」の趣旨はあくまでも宮廷における強制労働刑であり去勢はあくまで付随的なものである。ゆえに女性を宮刑に処す場合には去勢する必要性がなかったと言える。1983年に発見された前漢初期の法令集『二年律令』でも、府刑(腐刑)に処せられたのは、強姦を犯した者と肉刑相当の罪を繰り返した者に限定されており、後者は去勢刑だけで労働刑がない(府刑のみ)が、前者の条文には「強與人奸者、府以爲宮隷臣」(強姦を犯した者は腐刑に処した上で宮廷で働く奴隷とする)と記されていることから、府刑(腐刑)の意味はあくまで去勢刑であり、宮刑は「去勢+労役刑」であったことがわかる。なお去勢手術法の違いで股間の見た目が異なり、黄河文明以来の系統をひく漢帝国での手術法(上述の二系統の去勢刑が混同されたもの)が「椓刑・陰刑・宮刑」で、戦国期から登場した秦の手術法が「腐刑」(これは途絶えて名称だけが別名として残る)だとも、また別の説では秦代以前から呉や周などの地方によっては陰茎か睾丸を残す手法もあったともいう。
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