実力をつける楊堅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 20:18 UTC 版)
楊堅は、14歳のとき、京兆尹の薛善に召されて功曹となった。15歳で父の功績により散騎常侍・車騎大将軍・儀同三司となり、成紀県公に封じられた。16歳で驃騎大将軍に転じ、開府儀同三司の位を受けた。北周の明帝が即位すると、右小宮伯となり、大興郡公に進んだ。武帝が即位すると、左小宮伯に転じ、隨州刺史として出向し、位は大将軍に進んだ。父の楊忠の死後、隨国公の爵位を嗣いだ。 北斉の平定にも戦功を挙げ、位は柱国に進み、定州総管に任ぜられた。のちに亳州総管に転じた。 578年、楊堅は長女の楊麗華を北周の宣帝の皇后として立てさせ、自身は上柱国・大司馬となって権力を振るった。579年、大後丞・右司武となり、大前疑に転じた。580年5月、揚州総管となるが、宣帝が死去したため、楊堅は静帝の下で左大丞相となり、北周の実権を掌握した。6月以降、尉遅迥・司馬消難・王謙らに反乱を起こされたが、楊堅はこれを武力で鎮圧した。9月には大丞相となり、12月には相国・総百揆・都督内外諸軍事・隋王に上った。翌581年2月、静帝から禅譲させて皇帝に即位し、隋朝を開いた。同月中のうち、虞慶則の進言を受けて文帝宇文泰の孫の譙公宇文乾惲・冀公宇文絢、孝閔帝宇文覚の子の紀公宇文湜、明帝宇文毓の子の酆公宇文貞・宋公宇文實、武帝宇文邕の子の漢国公宇文賛・秦国公宇文贄・曹国公宇文允・道国公宇文充・蔡国公宇文兌・荊国公宇文元、宣帝宇文贇の子の萊国公宇文衎・郢国公宇文術ら、北周の皇族の宇文氏一門を多数殺害し、そして5月には介国公に降封されていた宇文闡を暗殺した。
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