安定せぬ治世とは? わかりやすく解説

安定せぬ治世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/22 01:45 UTC 版)

ラズィーヤ」の記事における「安定せぬ治世」の解説

しかし、ラズィーヤは父王の生前指名があっても決し安泰ではなく、その王位強力なチェハルガーニーと呼ばれたトルコ系貴族最終的な後押し得たであって、その治世トルコ系貴族との折衝連続だった。 これらの貴族たちは自分たちの意のままになる傀儡王位につけよう望んだが、ラズィーヤには政治的軍事的才能があったので、彼らの思い通りにはならなかった。彼女は女性の服装捨て男装纏い、顔を覆わずに宮中会議をとりおこなったり、自ら狩りにでていったり、戦場では自ら軍を率いた。またラージプート勢力抑えるため、ランタンボール遠征軍送り一時的であった王国全土安定させるのに成功したワズィール宰相)であるニザームル・ムルク・ムハンマド・ジュナイディーはラズィーヤ王位認めず、他の貴族味方に付け反乱起こしたラズィーヤアワドのマリク・ヌスラトゥッディーンの救援得て、この反乱鎮圧したラズィーヤ自分忠実な貴族たちの党派をつくるため、非トルコ系人間を高い地位登用しようとしたラズィーヤ大将軍起用したのは「ハブシー(アビシニア人)」と通称される東アフリカ沿岸部出身黒人奴隷ジャマールッディーン・ヤークートである。だが、これがトルコ系貴族の間に妬み買って反発引き起こしたラズィーヤ微賎身分ジャマールッディーン愛人関係にあると噂された。 1239年から1240年にかけて、北西部ラホールとシルヒンドで反乱起こったので、ラズィーヤはまずラホール向かって自ら遠征軍率い反乱側のその地の知事を従わせた。だが、シルヒンドへ向かう途中遠征軍内部反乱がおき、ジャマールッディーン・ヤークート殺されラズィーヤはタバルヒンダ(バーテインダ)で捕らわれた。この知らせ聞いたデリー貴族らは、その弟であるムイズッディーン・バフラーム・シャーを王とした。 しかし、ラズィーヤ最後の賭け出て自分捕らえたマリク・アルトゥーニヤを説き伏せ味方引き入れて、彼と結婚した

※この「安定せぬ治世」の解説は、「ラズィーヤ」の解説の一部です。
「安定せぬ治世」を含む「ラズィーヤ」の記事については、「ラズィーヤ」の概要を参照ください。

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