ムイズッディーン・バフラーム・シャーとは? わかりやすく解説

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ムイズッディーン・バフラーム・シャー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/07/18 01:48 UTC 版)

ムイズッディーン・バフラーム・シャーのコイン

ムイズッディーン・バフラーム・シャー(Muiz ud din Bahram Shah, 1205年以降- 1242年5月15日)は、北インドデリー・スルターン朝奴隷王朝の第6代君主(在位:1240年 - 1266年)。第3代君主であるシャムスッディーン・イルトゥトゥミシュの息子にあたる。

生涯

1240年、姉のラズィーヤが遠征中に反乱でとらえられたことにより、弟であるバフラーム・シャーがデリートルコ系貴族ら擁立された[1]。その後、デリーに進軍してきた姉の軍勢を破り、バフラーム・シャーの地位は確固としたものとなった[2]

だが、バフラーム・シャーはトルコ系遺族がラズィーヤに対抗するために擁立されたにすぎず、その実権はチェハルガーニーの一人で摂政マリク・イフティヤールッディーン・アイトゥキーンに握られていた[3]。アイトゥキーンはバフラーム・シャーの妹と結婚したばかりか[4]、象を保有し、自邸の前で日に3日音楽を演奏させるなど、あたかも事実上の王であるかのように振る舞った[5]

バフラーム・シャーはアイトゥキーンの横暴に耐え切れなくなり、その暗殺を計画して実行した。だが、別の有力者バドルッディーン・スンカルが権力を握り、彼の打倒を計画した[6]。のち、スンカルの計画は露見するところとなり、バフラーム・シャーは彼と賛同者数人を殺害した。

そうしたなか、1241年冬にオゴデイ・ハーンの派遣したモンゴル軍が北インドに侵攻し、多数の人々が虐殺されるところとなった[7]。バフラーム・シャーはこれに応戦するため、チェハルガーニーらにトルコ系貴族にデリーから出陣させたが、彼らは自分たちを死なせているのだと思い込み、デリーへと帰還した[8]。こうして、デリーはトルコ系貴族に3か月にわたり包囲されたのち、1242年5月に攻略されてしまい、バフラーム・シャーは投獄され、同月15日に殺害された。

バフラーム・シャーが投獄された際、マリク・イズッディーン・バルバンという人物が王位を宣しているが、これはチェハルガーニーには認められず、彼の一人芝居に終わった[9]

脚注

  1. ^ ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、p.116
  2. ^ ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、p.116
  3. ^ 荒『インドの「奴隷王朝」 中世イスラム王権の成立』、p.56
  4. ^ 荒『インドの「奴隷王朝」 中世イスラム王権の成立』、p.56
  5. ^ ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、p.117
  6. ^ ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、p.117
  7. ^ ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、p.117
  8. ^ ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、p.117
  9. ^ 荒『インドの「奴隷王朝」 中世イスラム王権の成立』、p.56

参考文献

  • 荒松雄 『インドの「奴隷王朝」 中世イスラム王権の成立』 未来社、2006年 
  • フランシス・ロビンソン; 月森左知訳 『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)』 創元社、2009年 

関連項目




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