アラー・ウッディーン・マスウード・シャーとは? わかりやすく解説

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アラー・ウッディーン・マスウード・シャー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/13 00:44 UTC 版)

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アラー・ウッディーン・マスウード・シャー
奴隷王朝第7代君主
アラー・ウッディーン・マスウード・シャーのコイン
在位 1242年 - 1246年

死去 1246年以降
王朝 奴隷王朝
父親 ルクヌッディーン・フィールーズ・シャー
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アラー・ウッディーン・マスウード・シャー(Ala ud din Masud Shah, 生年不詳 - 1246年以降)は、北インドデリー・スルターン朝奴隷王朝の第7代君主(在位:1242年 - 1246年)。第4代君主であるルクヌッディーン・フィールーズ・シャーの息子にあたる。

生涯

1242年5月、ムイズッディーン・バフラーム・シャーを殺害したチェハルガーニーらトルコ系貴族らは、デリーの「白の宮殿」と呼ばれる場所から三人の王子を解放した[1]。協議と妥協の結果、バフラーム・シャーの甥アラー・ウッディーン・マスウード・シャーを擁立した[2][1]

だが、マスウード・シャーの治世もまたトルコ系貴族が実権を握っており、ワズィール(宰相)であるニザームル・ムルク・フワージャ・ムハッザブッディーンが事実上の支配者であった[3]

しかし、ムハッザブッディーンが対立するトルコ系アミールの一派に殺害されると、マスウード・シャーの残忍で放蕩とした性格も相まって、その王座は危うくなった[4][2]

1246年6月、マスウード・シャーは貴族らに幽閉され、獄中で一生を終えたという[4]

脚注

  1. ^ a b ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、p.117
  2. ^ a b 荒『インドの「奴隷王朝」 中世イスラム王権の成立』、p.56
  3. ^ 荒『インドの「奴隷王朝」 中世イスラム王権の成立』、p.57
  4. ^ a b ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、p.118

参考文献

  • 荒松雄 『インドの「奴隷王朝」 中世イスラム王権の成立』 未来社、2006年。 
  • フランシス・ロビンソン、月森左知訳 『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)』 創元社、2009年。 

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