学問水準の向上と民衆の反発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 06:36 UTC 版)
「バヤズィト2世」の記事における「学問水準の向上と民衆の反発」の解説
皇子時代と皇帝になった当初は娯楽と美食に目がなく、麻薬を愛好していたとも言われるが、快楽への情熱は宗教にも向けられた。内政においてはメフメト2世による中央集権化への反動が起きたが、文化面でも同様の反動が起きた。敬虔なムスリムである彼は偶像崇拝を忌み嫌っており、王宮が有していた絵画を売却あるいは破棄し、ジェンティーレ・ベリーニらがイスタンブールで制作した作品の多くが失われた。バヤズィトは宮廷でイスラームの神秘主義(スーフィズム)と韻文に親しみ、学者の保護にも熱心だった。彼の保護を受けた人物としては、アラビア書道の6つの基本的な書体を独自の手法によって再解釈した書家シェフ・ハムドゥッラーを挙げられる。オスマン帝国内のイスラーム諸学の研究水準は向上したが、同時にイスラーム法学が権威化されたことで国内の規定がイスラーム法(シャリーア)の制限を受けるようにもなる。同時に正統のスンナ派を奉じる国家としての意識も高まるが、領民の全てがバヤズィトとイスラーム学者が推進する教義を受け入れたわけではなく、シャー・クルの反乱に参加した民衆の中には、政府の宗教政策に否定的な者も多く含まれていた。
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