存在説と非存在説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/17 06:17 UTC 版)
存在説の根拠は、「天智天皇の命令により藤原鎌足が天智元年(668年)に律令を編纂した」(『藤氏家伝』大織冠伝)及び「天智元年に令22巻を制定した。これが『近江朝廷之令』である」(『弘仁格式』序)の2つの記事である。当時は天智天皇のもとで政治体制の近代化が進められ、中国の諸制度の積極的な導入が行われており、その根幹となる律令(近江令)が当然に定められたはずと見るのが存在説である。存在説の立場では、近江令は律令制導入へ至る先駆的かつ重要な法令であり、後の飛鳥浄御原令や大宝律令へ影響を与えたとしている。 しかし、『藤氏家伝』も『弘仁格式』も後世(8~9世紀)に編纂されたものであり、正史の『日本書紀』には近江令制定の記事はない。しかし、天智9年(670年)条「朝庭の礼儀と行路の相避ることを宣う」とある。これは令とともに礼を撰述させたのである。天智10年(671年)に「冠位・法度の事を宣い行い給う」とある。また、『弘仁格式』は、天智天皇系の皇統を重視した記述となっているため、天智天皇の業績をより大きく評価したものであると理解できる。これが非存在説の根拠である。ただし、非存在説はいくつかの立場に分かれている。まったく令は存在しなかったとする説、天智期に制定された諸法令を総称して、後代に近江令と呼んだとする説、完全ではないがある程度の令が編纂されたとする説、ほぼ完全な形に近い令が編纂されたが施行は一部にとどまったとする説、などである。非存在説の主張は、律令制構築への動きについて、天智天皇よりも天武天皇の影響力の大きさを重視する傾向が強い。
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