奇妙な最後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:06 UTC 版)
「ヴィリ・ミュンツェンベルク」の記事における「奇妙な最後」の解説
フランスの政治家は、戦争が起こった場合、他のドイツ人移民と同様にミュンツェンベルクが収容所に送られないようにしていた。ドイツ国防軍がベネルクス3国を攻撃し、パリが陥落する数日前、ミュンツェンベルクはフランス・パリ郊外のスタッド・ドゥ・コロンブの収容所に移送された。南フランスに移送される事を希望していた。実際、他のドイツの移住者と同様にリヨン南東にあるシャンバラン収容所に送られた。収容者達が、ナチス軍侵攻でプラトー・ドゥ・シャンブランも危険に曝さらされる事をフランス人収容所所長に説得した。また収容所所長も、彼らが政治的移民であり、ナチス占領後の待遇を知っていた為、ドイツ軍が近づくと収容所の門を開け放ち、彼らの幸運を祈った。収容者たちは、小さなグループか個人ならばより早くスイスかフランス南部に避難できると考えた。ミュンツェンベルクは1940年6月21日、ローヌ河畔のシャルムに避難した。彼の同行人であるレオポルト・シュヴァルツシルト、クルト・ヴォルフ、パウル・ヴェストハイムやクレメント・コルトフムなど話によると、ミュンツェンベルクは早い内に一人でマルセイユに移動し、そこで地下に潜るか、北アフリカに行く船を見つけたいと望んでいた。 ただ現実的な旅程は、彼や妻のグロスの親しい友人が居て銀行に預金があるスイスと考えられていた。 1940年10月17日彼の縊死体が発見された。彼は1940年6月21日か22日に、イゼール県サン・マルセラン近郊のモンターニュ村のレ・コニェ (Le Caugnet) の森の中で死亡したと考えられている。顔には争った形跡があったという。 1950-1960年代の著者は、ヴィリー・ミュンツェンベルクはファシズムもしくはスターリニズムの犠牲者と考えているが、後に発見された書類(フランス国家憲兵隊の審理記録であり、自由ドイツ国民委員会(CALPO)会員の報告)では、ヴィリー・ミュンツェンベルクは自殺したとしている。
※この「奇妙な最後」の解説は、「ヴィリ・ミュンツェンベルク」の解説の一部です。
「奇妙な最後」を含む「ヴィリ・ミュンツェンベルク」の記事については、「ヴィリ・ミュンツェンベルク」の概要を参照ください。
- 奇妙な最後のページへのリンク