天草のキリシタン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 01:57 UTC 版)
天草地方では、島原の乱後、幕府は絵踏・宗門改めを強化してキリシタン宗徒を摘発し、禅僧・鈴木正三らを派遣して仏教の伝道を強化。天草郡内に寺社領300石を配分して寺社を建立し、キリシタン根絶をはかった。天草の住民はそれぞれ禅宗17寺・真言宗1寺・浄土真宗17寺の信者・門徒となり、寺請された。しかし、下島の一部にキリシタンが潜伏し、1718年(享保3年)ごろに幕府側がこれを察知し、監視していた。 島原半島、天草諸島では島原の乱後に人口が激減したため、幕府は各藩に天草・島原への大規模な農民移住を命じていた。1643年には5000人程度だった天草諸島の人口は1659年(万治2年)には16000人に増加した。キリシタン取り調べ時の1805年には12万人、1829年には14万人に増加していた。 天明3年(1783年)以来、天領の天草は島原藩が預地として統治していた。事件の吟味を担当した島原藩は、天草に怪しげな宗教活動が存在していることは事前に察知しており、崩れの数年前から「異宗」の探索を内密に進めており、それは「切支丹宗門ニ附申渡」という触が天草に発布された寛政11年(1799年)前後のことと推測されている。
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