大阪市編入以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 01:16 UTC 版)
森小路・新森付近は淀川と大和川から運ばれた土砂による堆積地であったため、ムラが確立され人が住み始めていた。そこでは、弥生土器・類似の土師器・釜を使用して焼いた須恵器・製塩土器が発掘され、出土品は現在旭区民センターの郷土資料室で保管されている。また、新森中央公園内にある森小路遺跡は1931年に発見され、そこに石碑が建てられている。大阪平野のかなりの部分が淀川と大和川の土砂で埋まっていき、出来上がった土地でも稲作が始まり、焼けた米粒・木製の鍬や杵・石包丁が採掘されていたため水田があると推測されているが、2016年現在発見されてない。しかし、森小路村落の北側の淀川は氾濫がよく起こったため農作物に大きな被害を及ぼしていた。 古墳時代では、長雨が続くと、淀川や大和川の氾濫や大阪湾からの海水が逆流し、大きな被害を受けることがあった。当時、災害に対する備えを持たなかったため、仁徳天皇は治水工事を開始した。堤(茨田の堤)を建設するとともに、河の神に生贄を捧げることを決め、神のお告げによって武蔵国の強頸(こわくび、无邪志国造#子孫参照)と河内国の茨田連衫子(まむたのむらじころもこ)の2人が選ばれた。強頸は生贄として淀川に沈められたが、茨田連衫子は川にヒョウタンを投げ込み沈まなかったことからこの生贄が神の意志によるものでないとして、生贄をまぬがれた。また、強頸が没した場所は現在の千林周辺で、強頸絶間(こわくびたえま)として石碑が建てられている。
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