大蔵主導の再編策と見掛増資
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「幸福銀行」の記事における「大蔵主導の再編策と見掛増資」の解説
1997年夏、大蔵省銀行局の杉井孝審議官は部下の石井道遠中小金融課長(のち、国税庁長官を経て東日本銀行頭取)を通じ、関西地区で経営が行き詰まっていた幸福銀、京都共栄銀行(筆頭株主が大一商店)、福徳銀行、なにわ銀行の4行に経営不振行同士を合併させるため、新たに創設した特定合併制度を利用し合併するよう持ち掛けていた。関西では1995年8月、木津信用組合と兵庫銀行が経営破綻し、翌年には阪和銀行に業務停止命令が発動されていたことから、次は○○銀行が危ないなどという風説が頻繁に流布され、金融の火薬庫と呼ばれていた。だが、同年9月になると4行の経営不振が表沙汰となり、また特定合併制度も与野党から不評を買った。こうしたことから大蔵省も4行同時処理を諦め、2行ずつを処理する方針へと軌道修正を図った。翌1998年10月26日、自主再建を断念した京都共栄銀から幸福銀に営業が譲渡された。 1999年2月、幸福銀幹部がATMの相互開放や資本提携を密かに大和銀行へ打診したが、同行はリスクが高すぎると拒絶した。このあと幸福銀は住友銀行や三和銀行にも提携を申し入れるがいずれも固辞。木村義雄の政界人脈にも期待したがそれも実を結ばず、外資系企業等からも色よい返事を得ることが出来なかった。金融監督庁の検査を受け資本増強を迫られた幸福銀は、グループ企業に対する3度の増資を実施するも経営基盤の強化にはつながらず、同じように経営難に陥っていた東京相和銀行グループと互いに増資を引き受け合う「迂回出資」を行い、急場をしのごうとした。一種の「見掛(見せ金)増資」であった。
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