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大村桂巌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/13 13:12 UTC 版)

大村 桂巌
誕生 大村 里磨
1880年2月10日
日本滋賀県愛知郡葉枝見村三ツ谷村(現・滋賀県彦根市
死没 (1954-10-02) 1954年10月2日(74歳没)
日本 東京都 新宿区
職業 教育学者僧侶
国籍 日本
最終学歴 東京帝国大学
代表作 『教育学汎論』(1922年)
『宗教教育概論』(1930年)
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大村 桂巌(おおむら けいがん、1880年明治13年)2月10日 - 1954年(昭和29年)10月2日)は日本の教育者浄土宗僧侶大日本帝国陸軍士官学校の教授、芝中学校・高等学校の第5代校長、大正大学の第11代学長などを務めた[1]

生涯

1880年(明治13年)2月10日、滋賀県愛知郡葉枝見村三ツ谷(現在の滋賀県彦根市)常光寺住職の父・哲誉上人、母・琴鶴の長男として生まれる[2]。幼名は里磨[2]。 里磨は得度となし、桂巌と改名し、浄士宗の中学及び大学を卒業したのち、内地留学生に特選され東京都へ移り明治43年に東京帝国大学哲学科教育学を卒業[3]。 その後、陸軍士官学校の教授、芝中学校・高等学校の第5代校長、大正大学の第11代学長などを務めた[4]。 陸軍士官学校では永年の勤務の功により高等官三等に序せられ、教え子には三笠宮崇仁親王がいる[5]。1954年(昭和29年)10月2日、東京都新宿区で死没。享年74歳。墓は東京都杉並区東運寺にある[4]

経歴

  • 1910年:東京帝国大学哲学科教育学を卒業。
  • 1911年:浄土宗第五教区宗学校長、尼衆学校長、浄土宗専門学校講師を兼任。
  • 1912年:東山小学校長。
  • 1916年:淑徳高女教頭、千代田女子専門学校講師を兼任。
  • 1925年:宗教大教授、陸軍教授に補せられ陸軍士官学校附となる。
  • 1926年:翌年宗教大が大正大学と改称し同大教授に就任。
  • 1931年:三井清泉学寮幹事長に就任。
  • 1937年:陸軍教授を退任して芝中学校の第5代校長に就任。
  • 1942年:大正大学文学部長に就任。
  • 1948年:第11代大正大学長に就任。
  • 1949年:大正大学名誉教授に就任。
  • 1951年:宝仙学園短期大学教授に就任。

  1. ^ 『大日本人物名鑑』 ルーブル社出版部、1921年 p.120
  2. ^ a b 小澤修三『修三の旅日記 父の業績を訪ねて』 新出安政、1999年
  3. ^ 『大日本人物名鑑』ルーブル社出版部、1921年 p.120
  4. ^ a b 『東運爾語』大村先生記念文叢刊行会、1955年10月
  5. ^ 小澤修三『修三の旅日記 父の業績を訪ねて』 新出安政、1999年
その他の役職
先代
藤田寛随
芝中学校
1937年 - 1942年
次代
中島真孝
先代
私立第五教区宗学教校長
小林瑞浄
私立東山中学校
1912年 - 1916年
私立第五教区宗学教校長
1911年 - 1912年
次代
六花真哉



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