大原荘の立地と加藤氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/15 06:49 UTC 版)
河口湖は甲斐国東部の郡内地方南部に位置する。甲斐では甲府盆地の国中地方に比べて郡内に成立した荘園は少なく、大原荘のほかに大月市初狩町付近に所在した波加利荘(はかりのしょう)の存在が知られる。 大原荘に関する史料上の初見は「加藤遠山系図」で、加藤景廉(左衛門尉、大夫判官)娘で中村太郎の室となった女子の所領として「甲斐国大原庄」が見られ、加藤氏が大原荘の地頭であったことが確認される。 加藤氏は藤原利仁あるいは能因法師を祖とする一族で、『源平盛衰記』に拠れば、伊勢国に在住していたが東国に移り住み、伊豆国を拠点にしていたという。『源平盛衰記』に拠れば、加藤光員は工藤茂光の婿となり伊豆狩野荘内牧郷を分与されて本領としたという。また、光員の弟・景廉は工藤祐経と争い、安元2年(1176年)に殺害された河津祐泰の本領であった伊豆河津荘を建久4年(1193年)の祐経の没後に伝領している。 加藤氏には他に頼朝から新恩として美濃国の遠山荘・小木曽荘、遠江国の浅羽荘、備前国の長田荘、上総国の角田荘が給付されている。『吾妻鏡』に拠れば甲斐には源頼朝の挙兵に際して甲斐源氏の一族とともに行動を共にした工藤景光・行光父子の存在がいることから(甲斐工藤氏)、大原荘は加藤氏が甲斐工藤氏とも姻戚関係にあり、景廉が当荘を伝領した可能性が考えられている。 『吾妻鏡』治承4年(1180年)8月28日条に拠れば、加藤光員・景廉は同年8月13日の石橋山の戦いにおいて頼朝方に敗れると、駿河国大岡牧(静岡県沼津市)において出会うと「富士山麓」に逃れており、甲斐工藤氏を頼り当荘に潜伏していた可能性が考えられている。 廿八日、戊申、光員・景廉兄弟、於駿河国大岡牧各相逢、悲涙更湿襟、然後後引籠富士山麓云々、 — 『吾妻鏡』治承4年8月28日条
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