大内・陶との断交
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吉見正頼と大内義長・陶晴賢の双方から来援を求められた元就だが、当初は自主独立は時期尚早として晴賢側への参陣を考えていた。しかし、隆元は「陶へ加勢はやむを得ないとしても、(吉見討伐の次には)父(元就)が拘束される恐れがある。毛利家存続のため、名代として自分(隆元)や元春が出陣すれば義理立てはできる」と主張し、謀反人としていつか天罰を受けるであろう晴賢のもとに元就自身が出陣することに強く反対(また、元就が吉田郡山城を空けると、背後の尼子氏が動き出す懸念もあった)。年明け後の書状には「毛利と陶はいずれ決裂するので、こちらが有利な時に断交するべき」とまで書き残している(毛利家文書)。 天文23年(1554年)3月1日、大内義長を総大将とする大内軍は、三本松城を目指して出陣(三本松城の戦い)。しかし、元就は参陣する気配を見せなかった。既に晴賢は、安芸国人衆の盟主である元就を通さずに安芸の国人たちに出陣を催促する書状を2月下旬より送っていた。国人らに直接指示を出して、毛利と他の国人たちを分断しようと画策したのである。 しかし3月に、密使が平賀弘保と広相に捕らえられてしまう。元就の働きで平賀氏再興を成し遂げることができた恩があり、毛利への忠誠を示す弘保らは、これまでの書状と共に密使の僧を元就に突き出したのである。これは、安芸・備後の国人領主たちを取りまとめる権限を元就に与えるとした約束に反することであり、元就も隆房との対決を最終的に決意する。5月11日、ついに元就は天野氏・平賀氏・阿曽沼氏などに対して、大内・陶と断交する旨を伝えた。
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