大内・陶との断交とは? わかりやすく解説

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大内・陶との断交

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 00:11 UTC 版)

防芸引分」の記事における「大内・陶との断交」の解説

吉見正頼大内義長陶晴賢双方から来援求められ元就だが、当初自主独立時期尚早として晴賢側への参陣を考えていた。しかし、隆元は「陶へ加勢やむを得ないとしても、(吉見討伐次には)父(元就)が拘束される恐れがある毛利家存続のため、名代として自分隆元)や元春が出陣すれば義理立てはできる」と主張し謀反人としていつか天罰を受けるであろう晴賢のもとに元就自身出陣することに強く反対また、元就吉田郡山城空けると、背後尼子氏動き出す懸念もあった)。年明け後の書状には「毛利と陶はいずれ決裂するので、こちらが有利な時に断交するべき」とまで書き残している(毛利家文書)。 天文23年1554年3月1日大内義長総大将とする大内軍は、三本松城を目指し出陣三本松城の戦い)。しかし、元就は参陣する気配見せなかった。既に晴賢は、安芸国人衆盟主である元就通さず安芸の国人たちに出陣催促する書状2月下旬より送っていた。国人らに直接指示出して毛利他の国人たちを分断しようと画策しのである。 しかし3月に、密使平賀弘保と広相に捕らえられてしまう。元就働き平賀氏再興成し遂げることができた恩があり、毛利への忠誠を示す弘保らは、これまでの書状と共に密使の僧を元就突き出したのである。これは、安芸備後の国領主たちを取りまとめる権限元就与えるとした約束反することであり、元就も隆房との対決最終的に決意する5月11日、ついに元就天野氏平賀氏阿曽沼氏などに対して大内・陶断交する旨を伝えた

※この「大内・陶との断交」の解説は、「防芸引分」の解説の一部です。
「大内・陶との断交」を含む「防芸引分」の記事については、「防芸引分」の概要を参照ください。

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