多摩川台地区
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 08:20 UTC 版)
「田園調布」も参照 上記の理念を実現するために、多摩川台地区(現在の大田区田園調布の一部、世田谷区玉川田園調布の一部)の開発が行われた。田園調布の開発を推進した渋沢秀雄によると「私は田園調布の西側に半円のエトワール型を取り入れてもらった。この分譲地のサイト・プランを依頼した矢部金太郎君に注文をつけたのである」とあるように、実際に田園調布駅の西側に半円のエトワール型の道路を取り入れ街路樹を植え、当時の新興分譲地などでは住宅地における道路の面積は総面積の5パーセント程度であるのに対し、採算を度外視し田園調布では道路の面積だけでも街全体の18パーセントに達しており、また広場と公園を整備し、庭園都市としての良好な住環境を提供した。この地区の販売も好調で1928年(昭和3年)5月までにはすべての分譲が完了した。 対比される芦屋市六麓荘町は1928年(昭和3年)から、お屋敷町として数万坪が開発されたが、前節で述べたように田園調布では田園都市株式会社により街全体を庭園、つまり庭園都市(ガーデンシティー)にすることを目的に約30万坪(約100万平米)が開発されており、開発コンセプトは全く異なっている。 当時の「庭園都市の理念」は、現在の田園調布でも生きており、東急東横線・目黒線が通る多摩川駅の東側、田園調布一丁目に約3万平米の広さの田園調布せせらぎ公園(旧多摩川園遊園地の一部)があり、多摩川駅の西側から多摩川の河川敷との間、一丁目と四丁目に約6万6千平米の広さの多摩川台公園が、そして三丁目には大正時代末期からある宝来公園があり、第2種風致地区による建築制限と相まって、庭園都市としての良好な住環境が保たれている。また「庭園都市において守るべき住宅の条件」も「社団法人田園調布会」及び大田区都市計画による「田園調布憲章」「環境保全についての申し合わせ」及び「大田区田園調布地区地区計画」などにより受け継がれている。
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