夏の花
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『夏の花』(なつのはな)は、原民喜の短編小説、もしくはこの小説を表題作とする1949年刊行の作品集。小説は自身の広島での被爆体験を基に書いた作品である。悲憤や感傷を抑えた文体で、原爆の恐怖を伝えた。
- ^ 「ノート」は、前半が被爆翌日の1945年8月7日に原が野宿していた広島東照宮の境内、後半が広島近郊の八幡村の疎開先で同年8月8日以降に執筆されたもので、2010年にはその一節「コハ今後生キノビテコノ有様ヲツタヘヨト天ノ命ナランカ」が刻まれた「原爆65周年追憶碑」が同神社境内に建てられた[1]。また、原民喜の評伝を著した岩崎文人によれば、「夏の花」の内容は作者・原の被爆体験と全く同じものではなく、避難中の食事、長兄の息子たちとの邂逅など「ノート」に記されていても小説中に言及がないものもあり、逆に「私」が川でおぼれていた少女を泳いで救うシーンは「ノート」に言及がなく近親者の回想でもでてこないことなどからフィクションではないかと疑われている。岩崎『原民喜 - 人と文学』勉誠出版、2003年、pp.173-174。また戦後の随筆「原爆回想」は本作で描かれた被爆体験を扱っているが、内容は若干の違いがある(先述の救助シーンも登場しない)。
- ^ 岩波文庫版の佐々木基一(原の義弟)の解説(p.209)によれば、総合雑誌並の厳しい検閲対象となっていた『近代文学』よりも純文芸誌である『三田文学』の方が検閲をパスしやすいのではないかとの判断があった。
- ^ 前者は『三田文学』1947年11月号、後者は『近代文学』1949年1月号に発表。
- ^ ただし作品中の時系列は被爆前を描いた「壊滅の序曲」→「夏の花」→八幡村での避難生活を描いた「廃墟から」の順になる。
- ^ 併収された小説作品は、「3部作」と内容的に深い関係を持つ「小さな村」(避難先での生活の描いたもの)、「昔の店」(実家である軍需工場の栄枯盛衰の回想)、「氷花」(上京後の生活を描いたもの)である。
- ^ 手記「原爆被災時のノート」によると、これに相当する箇所は被爆直後ではなく、3日目(8月8日)の朝に広島駅や東練兵場(後出)方面に出かけ、市内の被爆状況を確認した(この部分は作品中には登場しない)後のくだりで出てくる。
- ^ 被爆建造物調査委員会(編)『ヒロシマの被爆建造物は語る』(広島平和記念資料館、1996年)によれば、被爆当時、広島には7階以上の建造物は中国新聞社新館(7F)・広島富国館(富国生命ビル・7F)・福屋百貨店新館(8F)の3つしか存在しないため、上流川町(現在の中区胡町)に所在し、5F以上が貸事務所となっていた中国新聞社新館であったと推定される。なお、同ビルは1970年解体され跡地には三越広島店(現在の広島三越)が入居した。
- ^ 現在の縮景園。
- ^ 後出の「西練兵場」ではなく広島駅の北側一帯に所在していた「東練兵場」であり、本土決戦に備えて設置された第二総軍の駐屯地でもあった。
- ^ 現在の紙屋町交差点付近の相生通り以北の広範な区域を占めており、戦後、その一角(かつての広島護国神社境内)に旧広島市民球場が建設された。
- ^ 現在の中区中町、広島全日空ホテルの敷地に所在しており、戦後の1978年、広島市西区己斐上に移転した。
- ^ 当時は小町に所在(現在の中区中町、中国電力本社付近)しており、戦後、国泰寺町の広島市役所東側への移転を経て現在は広島城南側の広島市立中央図書館となっている。
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