壱岐侵攻とは? わかりやすく解説

壱岐侵攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 16:00 UTC 版)

元寇」の記事における「壱岐侵攻」の解説

10月14日対馬続き、元軍は壱岐島西側上陸壱岐守護代・平景隆100余騎で応戦したものの圧倒的兵力差の前に敗れ、翌15日、景隆は樋詰城で自害する。 『高麗史金方慶伝には、壱岐島での戦闘模様が以下のように記されている。 元軍が壱岐島に至ると、日本軍岸上に陣を布いて待ち受けていた。高麗軍の将である之亮および金方慶娘婿の趙卞はこれを蹴散らすと、敗走する日本兵追った壱岐島日本軍降伏願い出たが、後になって元軍に攻撃仕掛けてきた。これに対して蒙古・漢軍の右副都元帥洪茶丘とともに之亮や趙卞ら高麗軍諸将応戦し日本兵を1,000余り討ち取ったという。 日蓮は、この時の壱岐惨状を「壱岐対馬九国の兵並びに男女多く或は殺され或は擒(と)らわれ、或は海に入り或は崖より堕(お)ちし者、幾千万と云ふ事なし」 と記している。 対馬壱岐侵した後、元軍は肥前沿岸へと向かった

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壱岐侵攻

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元寇」の記事における「壱岐侵攻」の解説

5月26日東路軍壱岐襲来。なお、東路軍壱岐の忽勿塔に向かう途中暴風雨遭遇し兵士113人、水夫36人の行方不明者を出すという事態に遭遇している。

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