埼玉県立特別支援学校塙保己一学園とは? わかりやすく解説

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埼玉県立特別支援学校塙保己一学園

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/24 02:20 UTC 版)

埼玉県立特別支援学校塙保己一学園

北緯35度54分24秒 東経139度25分02秒 / 北緯35.90676度 東経139.41736度 / 35.90676; 139.41736座標: 北緯35度54分24秒 東経139度25分02秒 / 北緯35.90676度 東経139.41736度 / 35.90676; 139.41736
過去の名称 埼玉県立盲学校
国公私立の別 公立学校
設置者  埼玉県
設立年月日 1908年(明治41年)
共学・別学 男女共学
設置学部 幼稚部
小学部
中学部
高等部普通科
高等部専攻科
学校コード E111230000017
所在地 350-1175
埼玉県川越市笠幡85-1
外部リンク 公式ウェブサイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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埼玉県立特別支援学校塙保己一学園(さいたまけんりつ とくべつしえんがっこうはなわほきいちがくえん)は、埼玉県川越市笠幡にある公立の特別支援学校。障害のある子どものための専門的な教育を行う特別支援学校(盲・ろう・養護学校)として埼玉県内で最も長い歴史[注釈 1]と伝統を有する[4]。寄宿舎も有する[5]

1889年明治22年)、養寿院を中心に蓮馨寺喜多院など川越の仏教界が宗派を超えて埼玉慈善会を立ち上げ、川越慈善学校の設置を埼玉県知事に嘆願、養樹院境内に学校を創設した。この学校は尋常小学校に通う余裕のない貧困層の子女を受け入れるための学校であり、山崎豊横田五郎兵衛など川越の商人が財政的に支えたが、尋常小学校の学費廃止に伴って1902年(明治35年)4月に廃校となった[6][注釈 2]

1908年(明治41年)、釈迦涅槃会の日(2月15日)[注釈 3]に養寿院の25世住職であった石井愚鑑を中心に、今度は盲児のための教育が発案された。石井は境内で遊ぶ盲目の子どもを見て哀れに思い、盲児を集めて寺で点字授業を開始した。翌1909年(明治42年)8月20日に県の認可が下り[9]、慈善学校の施設を活用して私立埼玉和協会訓盲学校が養寿院境内に開校した[10]。のちに埼玉盲学校と改名された。第3代校長となった笠松仙英も広済寺 (川越市)の29世住職である。

その後、埼玉県に移管され埼玉県立盲学校となり、創立102年目に埼玉県出身の盲目の国学者で郷土の偉人である「塙保己一」にちなんで現校名に改名した。ヘレン・ケラーは母親から塙のことを聞き、手本として勉強した逸話でも知られる。

同校は、人物のフルネームを校名にした日本で唯一の一条校である[11][注釈 4]

課程

視覚に障害のある幼児・児董・生徒のための学校で、

  • 幼稚部 3年
  • 小学部 6年
  • 中学部 3年
  • 高等部普通科

と、幼稚部教育相談0歳児からの一貫した教育を行う県内唯一の学校。

また、高等部や高校を卒業した生徒が進学する専攻科(保健理療科3年、理療科3年)では、按摩マッサージ指圧師鍼師灸師の国家資格取得を目指した密度の濃い教育を行っている。

沿革

  • 1908年明治41年)2月15日 - 川越町養寿院境内にある慈善学校で盲児を集めて点字授業を開始。
  • 1909年(明治42年)8月20日 - 私立埼玉和協会付属事業訓盲学校として認可[9][注釈 5]。初代校長は養寿院住職で教育者の石井愚鑑。
  • 1912年(明治45年) - この年より川越町から補助金交付。
  • 1916年大正5年)4月1日 - 埼玉盲学校と改称。埼玉県から選奨される。
  • 1921年(大正10年) - この年より宮内省より下賜金を拝受。
  • 1923年(大正12年)4月1日 - 唖部併置、埼玉盲唖学校と改称。
  • 1937年昭和12年)4月1日 - 文部省告示第144号をもって埼玉県立に移管され、埼玉県立盲唖学校と改称。
  • 1950年(昭和25年)1月1日 - 埼玉県立盲唖学校の組織を改め、唖部を分離独立。埼玉県立盲学校・埼玉県立聾学校(現・埼玉県立特別支援学校大宮ろう学園)と改称。
  • 1952年(昭和27年)5月1日 - 埼玉県立聾学校、大宮市に校舎が一部竣工して授業を開始。7月20日に移転完了。
  • 2008年平成20年) - 創立100周年。
  • 2009年(平成22年)4月1日 - 現校名に改称。

脚注

注釈

  1. ^ 埼玉県で最初に設立された盲人学校としては、1882年(明治15年)に現在の狭山市で設立された明心会導盲院[1]がある。この学校については1883年に入間川盲学校という名称で設立されたとする資料もあり[2]、また廃校に至るまでの消息を確認する資料に乏しい[3]
  2. ^ 慈善学校の建物は、1906年から1907年にかけて川越中学校有志の図書館として用いられた[7]
  3. ^ 2月18日とする資料もある[8]
  4. ^ 専修学校や各種学校を含めると、上田安子服飾専門学校マリールイズ美容専門学校、イザキ・ニュートン・カレッジなど複数の例がある。
  5. ^ 1908年(明治41年)に、和協会の代表であった遠賀亮中を校長として認可申請するも却下されたとする文献がある[12]

出典

  1. ^ 新編埼玉県史 通史編 5 (近代 1)』埼玉県、1988年3月、1032頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9644254/547 
  2. ^ 明治ニュース事典編纂委員会、毎日コミュニケーションズ出版部 編「入間川盲学校の開校式(明治16年4月26日 東京日日)」『明治ニュース事典 第3巻』毎日コミュニケーションズ、1984年1月、315頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12193334/236 
  3. ^ 狭山市史 通史編 2』狭山市、1995年12月、58頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9644853/58 
  4. ^ 埼玉県統計書 明治42年 第2巻』(レポート)埼玉県、1911年1月、7頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806494/103 
  5. ^ 寄宿舎”. 埼玉県立特別支援学校塙保己一学園. 2025年6月23日閲覧。
  6. ^ 埼玉県教育委員会 1971, p. 189.
  7. ^ 埼玉県立川越高等学校創立八十周年記念誌編集委員会 編『創立八十周年記念誌』埼玉県立川越高等学校、1979年11月、53頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12111690/42 
  8. ^ 埼玉県大百科事典5(み―わ)埼玉新聞社、1975年、174頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9640834/232 
  9. ^ a b 埼玉県立文書館 編『埼玉県行政文書件名目録 : 埼玉県立文書館所蔵 学務編 1』埼玉県、1977年1月、132頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11896614/77 
  10. ^ 埼玉県教育委員会 1971, p. 393.
  11. ^ アーカイブ 2016年4月3日 - ウェイバックマシン
  12. ^ 埼玉人物評論社 編『埼玉人物評論』埼玉評論社総務部、506頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1024766/287 

参考文献

  • 『埼玉県教育史 第4巻』埼玉県教育委員会、1971年。NDLJP:9526054 

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