広済寺 (川越市)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/07 07:34 UTC 版)
広済寺 | |
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所在地 | 埼玉県川越市喜多町5-1 |
位置 | 北緯35度55分37秒 東経139度28分57秒 / 北緯35.9269765度 東経139.4824013度座標: 北緯35度55分37秒 東経139度28分57秒 / 北緯35.9269765度 東経139.4824013度 |
山号 | 青鷹山 |
院号 | 慈願院 |
宗旨 | 曹洞宗 |
本尊 | 釈迦如来坐像[1] |
創建年 | 1548年 |
開山 | 広庵芸長 |
中興 | 本田親氏 |
正式名 | 青鷹山慈願院廣濟寺 |
広済寺(こうさいじ)は、埼玉県川越市喜多町にある曹洞宗の寺院[2]。山号は青鷹山、院号は慈願院[3]。
歴史
天文17年(1548年)8月20日、河越城主であった大道寺政繁によって建立された[4]。開山は広庵芸長。その後、江戸時代になって本田右近親氏によって再興されたという[5]。
1651年に起きた慶安の変では、対応に当たった松平信綱が川越藩主でもあったことから、連座した者の一部が広済寺境内で切腹させられた[6]。
本堂は享保14年(1729年)の火災で焼失し[7]、その後默元によって再建された。默元は本堂の軒が高すぎて、大風などによる修繕が必要になったときに不都合があると考え、自ら柱を切って軒を下げたため、他の寺に比べて軒が2尺(約60センチメートル)低くなったという。[4]。
明治維新とともに学制が発布されたことを受け、1873年(明治6年)に禅堂を利用して北学校が設置され、当時の喜多町と高沢町の児童を受け入れた[8]。1976年(明治9年)の記録では男子95名、女子92名が在籍していた[9]。また1879年(明治12年)4月1日には、寺の一部が入間郡・高麗郡の郡役所庁舎となった[10]。
境内
金毘羅堂
境内には鎮守社として金毘羅神社がある。安永9年(1780年)に鴫町(現・仲町)の若林宇右衛門らによって勧請された。その後文化13年(1816年)に一度焼失し、現存する本殿・幣殿・拝殿・楽の間は文化15年(1818年)から嘉永年間にかけて順次再建されたものとされる。什物を含め、川越市の有形文化財に指定されている[11]。
本寺・末寺
多摩郡根ヶ布村(現・東京都青梅市)の天寧寺を本寺としていた[12]。また、川越市幸町にある長喜院が末寺であった[13]。
脚注
- ^ 中嶋 1917, p. 63.
- ^ 小原 1924, p. 70.
- ^ 安部 1917, p. 62.
- ^ a b 安部 1917, p. 63.
- ^ 松本勘太郎(講述)『川越史蹟概要 2版』立正大学史学研究室、1937年、7頁 。
- ^ 高橋 1972, p. 217.
- ^ 高橋 1972, p. 248.
- ^ 川越市 1932, p. 51.
- ^ 川越市 1932, p. 79.
- ^ 川越市総務部市史編纂室 編『川越市合併史稿』川越市、1966年、39頁 。
- ^ “市指定有形文化財 広済寺金毘羅堂及び常什物一括”. 川越市. 2025年5月24日閲覧。
- ^ 中嶋 1917, p. 62.
- ^ 小原 1924, p. 71.
参考文献
- 中嶋孝昌 著、安部立郎 編『三芳野名勝図会』川越図書館、1917年12月 。
- 小原亀太郎、川上寛治 編『川越案内』川越商業会議所、1924年 。
- 川越市 編『川越市沿革史概要』明文堂書店、1932年 。
- 高橋源一郎『武蔵野歴史地理 第8冊』有峰書店、1972年 。
外部リンク
- “広済寺”. カワゴエール. 2025年5月24日閲覧。
- 川越市教育委員会 教育総務部 文化財保護課 管理担当 (2024年11月22日). “市指定有形文化財 広済寺金毘羅堂及び常什物一括”. 川越市. 2025年5月24日閲覧。
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