埋葬・盗難被害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 09:09 UTC 版)
「ベニート・ムッソリーニの死」の記事における「埋葬・盗難被害」の解説
ミラノでの見せしめと検死を経て、ムッソリーニの遺体はミラノ北部のムゾッコ墓地(英語版)に埋葬された。埋葬地に墓標は置かれなかった。1946年の復活祭の日曜日、ドメニコ・レッチージ(イタリア語版)という名の若いファシストは埋葬場所を突き止め、2人の友人とともにムッソリーニの遺体を掘り起こして盗んだ。当局による捜索が行われる中、その後16週間にわたって遺体は転々と各地に運ばれた。その間、別荘や修道院などが遺体の隠し場所として利用された。最終的に、ムッソリーニの遺体は1946年8月、ミラノからさほど離れていないパヴィア修道院(英語版)で、片脚が欠損した状態で発見された。ファシズムへの共感を持つ2人のフランシスコ会修道士が、レッチージが遺体を隠すのに手を貸したとして罪に問われた。レッチージは6ヶ月の懲役刑を受けることとなったが、その罪状は通貨偽造であり、ムッソリーニの遺体を盗んだこと自体については無罪放免となった。 その後当局は、ムッソリーニの遺体がチェッロ・マッジョーレの小さな町にあるカプチン会修道院に置かれるよう手配した。その後の11年間、遺体はこの修道院に保管されていた。その間、ムッソリーニの遺体の場所は遺族にすら秘密にされていた。ムッソリーニの遺族は何度も遺体の引き渡しを求めたが、1957年になるまで政府はその要求を受け入れなかった。1957年5月、新たに首相に就任したアドネ・ツォーリ(イタリア語版)は、ムッソリーニを故郷のエミリア=ロマーニャ州プレダッピオに改めて埋葬することに合意した。背景には、議会におけるツォーリの地位が、極右勢力(ネオ・ファシスト政党の代議士となっていたレッチージを含む)からの支持に依存していたほか、ツォーリ自身もプレダッピオにルーツがあり、ムッソリーニの未亡人ラケーレ・グイーディを良く知っていたという事情があった。
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