垂下式牡蠣養殖法の確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 02:09 UTC 版)
佐藤が的矢に来た目的は、真円真珠の養殖技術の確立であった。そこで佐藤は、1920年(大正9年)的矢の森本要助や渡鹿野の見瀬辰平らとともに的矢湾真珠養殖株式会社を設立、自らは常務取締役に就任する。しかし、同じ年に御木本幸吉に真円真珠養殖術で特許を取得されてしまい、目的を見失う。 そんなとき、真珠養殖筏に付着し成長する牡蠣を発見する。興味を抱いて調べてみると、通常2~3年かかる牡蠣の成育が、的矢では1年で済むことが判明した。これは 流入する河川が3本もあり、栄養分が大量に供給されること 湾の構造上、供給された栄養分が湾外に流出しにくいこと が理由に挙げられる。そして1928年(昭和3年)、これまで潮間帯でしか養殖できないと考えられてきた牡蠣を海中で養殖する垂下式養殖法を確立した。この方法は大変な成功を収め、全国にその技術は伝播していった。そして佐藤は近隣の浦村(現鳥羽市浦村町)や神明浦(現志摩市阿児町神明)でも事業を展開し始めた。 また同時に産地直送方式を採用し、市場を通すよりも新鮮で速く安く提供できるようにした。このおかげで1935年(昭和10年)頃に牡蠣の価格が大暴落した際にも影響を受けなかった。 1930年(昭和5年)には「的矢湾養蠣研究所」を設立、更なる研究を重ねることとなった。
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