地下鉄サリン事件への関与
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 06:49 UTC 版)
「遠藤誠一」の記事における「地下鉄サリン事件への関与」の解説
教団は強制捜査を実施しようとする警察の目先を変えさせるために、地下鉄にサリンを撒くことを計画。1995年3月17日、麻原から「サリン作れるか」と尋ねられ、遠藤はそれまでサリン製造の経験がなかったが、土谷の助手達も土谷の指導のもとでは製造できていたことから、自分にもできると踏んで「条件が整えば出来ると思います」と答えた。その後、地下鉄サリン事件の総指揮を任された村井秀夫より、中川智正とともに散布のためのサリンを製造することを指示される。 中川からサリンの原材料・メチルホスホン酸ジフロライド(以下ジフロ)を渡され、ジフロからサリンを生成することを伝えられるが、松本サリン事件でサリンの殺傷力を知悉していた遠藤はサリン生成に関わりたくない気持ちが大きくなった。そこで土谷の元へ行き、ジフロの容器を渡して分析を依頼し、さらにサリンの生成につき「君の所でやってくれるんだろう」と尋ねたが、土谷は自身の研究棟にあったスーパーハウス(実験者が有毒ガスを吸わないで済むドラフトの装置を設置したプレハブ小屋)が既に撤去されており、残されたドラフトも排気能力が弱くてサリンを生成するには危険であったことなどから、これを断った。結局遠藤は自身の研究棟であるジーヴァカ棟内のドラフトが設置された部屋(ドラフトルーム)においてジフロからサリンを生成することとなり、土谷の助言を得てサリンの生成方法を決定した。こうして土谷の指導のもと同月19日に中川とともにサリン5,6リットルを生成。このとき遠藤は土谷に対し「東京に行かないように第二厚生省のメンバーに伝えてくれ」「国会図書館とか、地下鉄を使うような所とかね」と零したとされる(これが後に遠藤が生成したサリンの用途について認識していたことの裏付けとなった)。遠藤は完成したサリンをナイロン袋に注入して二重袋にした上で村井に引き渡し、サリン散布役らが予行演習に使用する水入りナイロン袋を製作して、これも提供した。さらに実行犯らに対してサリン中毒の予防薬を渡すなど、主に地下鉄サリン事件の最終準備作業に関与した。翌20日の昼過ぎ、第6サティアンの3階にある自室にて東京の地下鉄にサリンが撒かれたことを知った。
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