土御門東洞院殿と公家町の形成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 08:48 UTC 版)
「土御門東洞院殿」の記事における「土御門東洞院殿と公家町の形成」の解説
元々、里内裏には大内裏に相当する外側の区画は存在しなかったが、周囲1町四方(面積にして3町四方分)を大内裏の区域に見立てて「陣中」と称し、その内側は牛車宣旨を受けるなどの特例がなければ、臣下は必ず下車して歩行で通行することとされていた。土御門東洞院殿の整備後も、陣中に官司などの設備を集めて大内裏としての性格を持たせることまでは行われなかったため、土御門東洞院殿の近隣に存在した公家の邸宅の中にはそのまま陣中に含まれるケースもあり、そうした家では牛車を使うことが出来なかった。もっとも、この時代には経済的な問題によって摂関家ですら牛車を十分に整備することが出来ず、摂関以下の公卿らは牛車による参入を必要とする陣外にある自邸からの参内を憚り、輿などで陣中にあった公家の邸宅に入ってそこを直廬の代わり(「陣家」)にしてそこから徒歩で参内することが行われた。もっとも、豊臣秀吉が関白になると、遅くても天正15年(1588年)までに土御門東洞院殿の陣中への公家衆屋敷地の総移転(公家町の形成)が実施され、結果的に陣中の概念を破壊されることになった。豊臣政権・徳川政権(江戸幕府)では、かつての陣中であった地域を中心として内裏を防御するための「惣構」とその出入口となる惣門を設置して、その内側に公家町を整備する方針を進めた。元和・寛永期には「陣中」に代わって「惣門之内」と呼ばれるようになる。そして、遅くても万治年間までには戦国的な名残を残す惣構は「築地」と呼ばれるようになり、「惣門之内」から「築地之内」と呼ばれるようになった。「築地之内」は明治維新によって天皇と公家たちが東京に移住した後、京都御苑として整備される。
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