国際線再拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 03:08 UTC 版)
1945年8月に終結した第二次世界大戦後における航空業界の復興時に、トリップはアメリカ発の国際線を独占しようとたくらみ、「パンナム選出議員」と言われたオーエン・ブリュスター上院議員が提出した、パンアメリカン航空の国際線独占を後押しする法案である「コミュニティー・エアライン法案」の成立に奔走したものの、同じく国際線の拡大を試みていたトランス・ワールド航空やアメリカン航空の系列会社のアメリカン・オーバーシーズ航空、ブラニフ航空やノースウェスト航空などの強硬な反対によりその目論見が成功することはなかった。また、ブリュスター上院議員はパンアメリカン航空との癒着が明らかになり、結果的に辞任することとなった。 その結果、ブラニフ航空が南アメリカ路線を、ノースウェスト航空が太平洋路線を、トランス・ワールド航空とアメリカン・オーバーシーズ航空がヨーロッパ路線を運航することになったが、全世界をカバーする権利を持つアメリカの航空会社はパンアメリカン航空だけとなった。 1946年1月には、ダグラスDC-4でニューヨークのラガーディア空港からロンドンとリスボンへ、アイドルワイルド空港からマイアミ国際空港など数か所を経由してのアルゼンチンのブエノスアイレスへの乗り入れを開始した。 なお、第二次世界大戦時に戦場となった世界各地に次々と飛行場が建設されたことや、第二次世界大戦時に製造されたダグラスC-54/DC-4、ロッキード コンステレーションなどの地上機がアメリカ軍により大量に払い下げられたこと、さらに前述のように新型機が次々に導入されたことから、パンアメリカン航空においてもシコルスキーS-42をはじめとする、これまでの飛行艇に代わり地上機が運航機材の中心となり、飛行艇の黄金時代は第二次世界大戦とともに姿を消した。
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