由良ノ海楫五郎
(四海浪吉五郎 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/24 06:19 UTC 版)
由良ノ海 楫五郎(ゆらのうみ かじごろう、1793年〈寛政5年〉 - 1852年11月22日〈嘉永5年10月11日〉)は、粂川部屋及び雷部屋に所属した元力士[1]。
本名は益子とのみ伝わっている。身長,体重は不明。出身地は下野国那須郡(現在の栃木県那須郡那珂川町)[2]。
最高位は東前頭4枚目。
幼少の頃から実力があるとみなされ、1816年3月に四海浪 吉五郎(しかいなみ きちごろう)の名前で初土俵を踏んだ際には、いきなり西前頭6枚目に附出された(幕内付出。江戸時代に横行した。幕下付出#幕下・三段目以外の付出の項を参照)。一部資料には1816年(文化13年)3月場所で「戸田川吉五郎」から「四海浪吉五郎」改名したとの記述もあるが[3]、当場所の番付の「四海浪 吉五郎」には「戸田川改」とは記されていない[4]。
しかし厳しいプロである大相撲の世界は甘くなく、1818年2月場所千秋楽の荒戸川戦で白星を挙げる[5]まで丸2年勝てない日が続いた。この間、同場所で記録した八十嶋冨五郎の26連敗を塗り替える27連敗の最多連敗記録を樹立した[6]。当然の如く番付は急降下し、次の1818年10月場所では凱歌 吉五郎(がいか きちごろう)と改名したが全休、翌1819年3月場所も5戦全敗を記録し、四股名を四海浪 吉五郎に戻した1820年3月場所では二段目10枚目以下(現在で言うと幕下陥落)になってしまった[7]。
その後数年間は二段目に低迷し、二段目10枚目以内(現在で言うと十枚目)とそれ以下を往復し、その間の1822年10月場所で由良ノ海 楫五郎 (ゆらのうみ かじごろう)に改名した[7]。1824年10月場所で東二段目6枚目となってからは、二段目10枚目以内に定着し、この頃には相撲のコツも掴んでいたせいか、徐々に白星も積み重ねるようになっていた。相変わらず黒星が先行する状態だったが、何故か番付は場所を追う毎に上昇していった(例.1826年10月場所では、西二段目3枚目で7戦全敗なのに、翌1827年3月場所では西二段目3枚目に留め置かれている)[1]。そして、1828年3月場所で東前頭7枚目となり再入幕を果たした。再入幕後は幕内でも5割前後の勝率を残した。1832年11月場所には幕内番付外に据え置かれる悲運があるも、1833年11月場所では5勝1敗2分の優勝同点という好成績を挙げた(5勝1分1預1休の成績を挙げた黒岩森之助が優勝相当成績と見なされている)。再び二段目に陥落した1837年10月場所より、1819年以来途絶えていた3代湊川を名乗り、二枚鑑札となった。下の名前も含めれば、1837年10月場所は湊川 四郎右衛門(みなとがわ しろうえもん)、1838年2月場所と同年10月場所は湊川 由三郎 (みなとがわ よしさぶろう)を名乗った[7]。1838年10月場所限りで現役引退し、年寄専務となった。弟子からは湊川四良兵衞(最高位:東前頭5枚目。のち5代湊川)を育て、「湊川部屋中興の祖」と謳われた[2]。年寄在任中の1852年10月11日に死去。59歳だった。
故郷・馬頭町の大山田下郷の愛宕神社に「永代御祭礼角力、湊川由三良土俵」の額がある[8]。
主な成績
江戸相撲のみ示す。
- 番付在位場所数:39場所
- 通算成績:62勝118敗63休16分3預4無(二段目10枚目以上)
- 幕内在位:19場所
- 幕内成績:38勝59敗63休13分2預2無
場所別成績
春場所 | 冬場所 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|
1816年 | 西前頭6枚目 0–3–5 |
西前頭7枚目 0–8–1 1預 |
||||
1817年 | 西前頭7枚目 0–3–7 |
東幕下4枚目 0–8 |
||||
1818年 | 東幕下7枚目 1–5 |
東幕下7枚目 0–0 |
||||
1819年 | 西幕下9枚目 0–5 |
x | ||||
1820年 | 西幕下11枚目 – |
西幕下11枚目 – |
||||
1821年 | 西幕下10枚目 1–3 |
x | ||||
1822年 | x | 西幕下15枚目 – |
||||
1823年 | 東幕下10枚目 3–4 |
東幕下11枚目 – |
||||
1824年 | x | 東幕下6枚目 3–5 |
||||
1825年 | 東幕下5枚目 5–3 1預 |
東幕下3枚目 2–7 |
||||
1826年 | 西幕下3枚目 1–1 1分 |
西幕下3枚目 0–7 |
||||
1827年 | 西幕下3枚目 1–3 1無 |
東幕下筆頭 2–3 1無 |
||||
1828年 | 東前頭7枚目 2–2–6 |
西前頭7枚目 4–4–1 1分 |
||||
1829年 | 西前頭5枚目 2–1–2 1預1無 |
東前頭5枚目 3–5–2 |
||||
1830年 | 東前頭5枚目 2–2–6 |
西前頭5枚目 1–3–4 2分 |
||||
1831年 | 西前頭6枚目 2–5–2 1分 |
西前頭6枚目 3–2–3 |
||||
1832年 | x | 東前頭7枚目 3–3–4[9] |
||||
1833年 | 東前頭7枚目 2–4–3 1分 |
西前頭6枚目 5–1 2分 |
||||
1834年 | 西前頭7枚目 1–3–4 2分 |
東前頭4枚目 3–2–4 1分 |
||||
1835年 | 東前頭7枚目 0–1–6 3分 |
東前頭6枚目 3–4–3 |
||||
1836年 | 東前頭5枚目 2–3 1無 |
x | ||||
1837年 | x | 東幕下筆頭 5–2 |
||||
1838年 | 西幕下筆頭 0–2 2分 |
西幕下2枚目 引退 0–1–0 |
||||
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
- 当時は十両の地位が存在せず、幕内のすぐ下が幕下であった。番付表の上から二段目であるため、現代ではこの当時の幕下は、十両創設後現代までの十両・幕下と区別して二段目とも呼ぶ。
- 二段目11枚目以下の地位は小島貞二コレクションの番付実物画像による。
改名歴
- 四海浪 吉五郎 (しかいなみ きちごろう)- 1816年3月場所 - 1818年2月場所
- 凱歌 吉五郎 (がいか きちごろう)(番付表記は「凱哥 吉五郎」) - 1818年10月場所 - 1819年3月場所
- 四海浪 吉五郎 (しかいなみ きちごろう)- 1820年3月場所 - 1821年2月場所
- 由良ノ海 楫五郎 (ゆらのうみ かじごろう)- 1822年10月場所 - 1836年2月場所
- 湊川 四郎右衛門 (みなとがわ しろうえもん)- 1837年10月場所
- 湊川 由三郎 (みなとがわ よしさぶろう)- 1838年2月場所 - 1838年10月場所
出典
- ^ a b http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=3260&l=j
- ^ a b 『探訪栃木の名力士』(板橋雄三郎/共著 青柳文男/共著 下野新聞社 1994年)ISBN 978-4882860549。p91-100参照。
- ^ 『日本相撲史』中p.258、飯田昭一『史料集成江戸時代相撲名鑑』p.254
- ^ 小島貞二コレクションの番付実物画像による。相撲デジタル研究所で閲覧可能。
- ^ 文化15年春場所大相撲星取表のサイト
- ^ 27連敗ブログ・日本相撲史。2011年4月15日記事。但し、取り組みの中には13休1預を含む。
- ^ a b c d 飯田昭一『史料集成江戸時代相撲名鑑』p.1395-p.1396
- ^ 『郷土歴史人物事典 栃木』』(柏村祐司/編著 尾島利雄/編著 第一法規出版 1977年)ISBN 978-4474000070。p54-55参照。
- ^ 番付外。
外部リンク
- 相撲レファレンス 湊川 楫五郎(ただし、実際の「湊川」としての下の名前は「楫五郎」ではなく、上記の通り「四郎右衛門」「由三郎」)
- 相撲レファレンス 凱歌
- 大相撲 記録の玉手箱(アーカイブ) 由良ノ海 楫五郎
関連項目
- 由良ノ海楫五郎のページへのリンク