善次郎からの脱却
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 01:26 UTC 版)
1909年(明治42年)、安田善次郎が一線を退き、番頭であり次女の婿である安田善三郎(伊臣貞太郎)が経営を主導する。そして1911年(明治44年)に安田銀行と安田商事を合併、株式会社安田銀行とし、銀行の近代化を図る。しかし、1919年(大正8年)に善次郎と善三郎の経営に対する確執(日本鋼管に対する支配強化を主張する善三郎と、浅野総一郎を尊重する善次郎)から、安田善三郎が安田家を去る。事態の収拾をはかるため善次郎が安田家内で理事職を分担し、集団指導体制を敷く。 1921年(大正10年)に安田善次郎が凶刃に倒れ、安田家に混乱が起こるが、長男の安田善之助が二代目善次郎を襲名し、番頭に日本銀行大阪支店の結城豊太郎を抜擢。結城は安田財閥の組織変革と人材の刷新を断行し安田銀行とその傘下15行を揺るぎない組織に仕立てたが、1929年(昭和4年)にまたもや安田家との確執から結城が解任され、元台湾銀行頭取の森広蔵を番頭に抜擢する。1936年(昭和11年)に二代目善次郎が急死し、その長男である安田一が安田保善社総長に就く。そして、1940年(昭和15年)に、森は安田銀行副頭取から退き、安田財閥は徐々に安田一を中心とする体制へと移行するが、程なく終戦を迎える。
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