善でも悪でもない無記(唯識思想、倶舎論など)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 04:10 UTC 版)
「無記」の記事における「善でも悪でもない無記(唯識思想、倶舎論など)」の解説
仏教の唯識思想においては、(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の六識の更に深層にある第八階層の)阿頼耶識は無記であるとされる。自己の過去の業は善あるいは悪であるが、現在の自己を成り立たしめている根源そのものである阿頼耶識は、過去の業から独立している(異熟である)とされるためである。阿頼耶識は善・悪の種子を蔵する拠り所となるが、もしもその阿頼耶識自体が本質的に悪ならば、我々はいつまでも迷いの世界を脱することができず、またもしも本質的に善ならば、迷いの世界はありえないことになるため、阿頼耶識そのものは、善・悪いずれの性質をも帯びない無記であるとされている。なお、善でも悪(=不善(ふぜん))でもない中性のものを指す「無記」の用語は、倶舎論を含め仏教全般で用いられることがある。善、悪(=不善)、無記とをあわせて三性(さんしょう)という。 この無記のうち、煩悩のけがれのある無記を有覆無記(うふくむき、うぶくむき梵: nivṛtāvyākṛta)と、煩悩のけがれのない無記を無覆無記(むふくむき、むぶくむき、梵: anivṛtāvyākṛta)という。なお、阿頼耶識は、さとりに達するための修行の障害(「覆」)がないという意味で、「無覆無記」という。また、(六識の更に深層にある第七階層の)末那識は、我癡・我見・我慢・我愛の四つの煩悩をしたがえており、障害があることから「有覆無記」という 。
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