哲学―「書かれざる」「実践の状態にある」弁証法
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「ルイ・アルチュセール」の記事における「哲学―「書かれざる」「実践の状態にある」弁証法」の解説
このような「歴史の科学」を生み出したマルクスの方法とは、いかなるものか。アルチュセールはこれを、「書かれざる」「実践状態で機能する」弁証法であると言い、それこそがマルクスの哲学であるとした。 いわゆる理論もまた、概念を生産するための、一種の実践である。ゆえに彼は、広義の理論活動を「理論的実践」と定義する。そして、諸々の理論が「理論的実践」ならば、そうした実践そのものの一般理論、理論的実践の過程の理論(大文字の≪理論≫)もまた存在する。このような発想から、『経済学批判要綱』の「序説」を引用しつつ、「科学は、具体的な物ではなく、一般性に働きかけ、新たな概念を生み出す」という一般理論を、アルチュセールは見出すのである。彼によれば、いわゆる唯物弁証法とはこの一般理論に基づくものである(cf.「唯物弁証法について」『マルクスのために』)。 では、このような一般理論、このような弁証法をもとにマルクスが作り上げた理論や概念は、いかなる意味において重要なのか。それを理解するには、単に『資本論』のあれこれの節を暗記していればそれでいい、ということにはならない。ここで、「兆候的読解」に対する理解が必要となる。ある問題においては、問いの不在(見えているがゆえに不可視となっているもの)があり、それを適切に見出す読みが、兆候的な読み方である。マルクスは、当時の古典経済学に対して、その読み方を実践したのだ。だから、それを理解しない限り、マルクスの発見の意義を測ることはできないのである。 こうした彼の初期思想は、マルクスの重大さを、「科学」(つまり、その根拠が検証可能であり、確立された理論のもとで同じ観測結果が得られる、反復可能な知識)として提示しようとする、理論的努力に貫かれている。すると、哲学とは、そのような「科学の科学」だという色彩を、いきおい帯びてくる。そのような彼の読みは、一方では、確かに刺激的であり可能性に満ちたものであった。だが他方で、彼に対する「科学主義」という批判が、的を射ていたことも確かである。
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