周王朝創立後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/29 03:54 UTC 版)
殷を滅ぼし天子となった武王は父西伯昌に文王と追号した。また帝辛によって誅殺された比干(帝辛の叔父)の墓を改葬し、幽閉されていた箕子(帝辛の叔父)を解放し、朝鮮に封じた(箕子朝鮮)。そして帝辛の異母兄である微子啓に殷の祭祀を続けさせ、宋に封じた。更に古代の聖王達の子孫を探し出し、 神農の子孫を焦に 黄帝の子孫を祝に 堯の子孫を薊に 舜の子孫を陳に 禹の子孫を杞に それぞれ封じた。その後、功臣たちの論功行賞を行い、次のように封じた。 呂尚を斉に 周公旦を魯に 召公奭を燕に 叔鮮を管に 叔度を蔡に 武王はこの他にも、南方の呉に逃れた大伯父の太伯・虞仲の子孫を探し出し、改めて呉に封じ、その弟を北方の虞に封じた。 武王は首都の鎬京以外に洛邑を副都とし、天下の武器を廃して兵士を故郷に返す事でもう戦いはしないと言う意思表示をした。 その後、ほどなくして武王は病にかかった。後継者である子の成王はまだ年少であったため、周の行く末を功臣の呂尚と同母弟の周公旦に托し、病没した。 武王は夏の禹・殷の湯王・父の文王と並び聖王として後世に崇められている。また、道教においては武王を霊宝天尊の化身とする場合もある。
※この「周王朝創立後」の解説は、「武王 (周)」の解説の一部です。
「周王朝創立後」を含む「武王 (周)」の記事については、「武王 (周)」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書から周王朝創立後を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
全ての辞書から周王朝創立後を検索
- 周王朝創立後のページへのリンク