呂護を征伐とは? わかりやすく解説

呂護を征伐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 06:24 UTC 版)

皇甫真」の記事における「呂護を征伐」の解説

361年2月河内郡太守呂護反旗を翻し東晋降伏使者派遣した慕容恪朝堂において対応策議して遠方の人が従わない時、文徳修治することにより帰順させるという。今、護(呂護に対して恩詔以って降伏させるのが適当であり、兵をもって攻め滅ぼすべきではないと考えるが、どう思うかね」と、群臣尋ねた皇甫真は「護(呂護)は9年の間に3度王命背いてます。彼の姦心推察しますに、依然として狂暴でねじまがったままであります。それに明公慕容恪)は今、江湘の地で兵馬休め、剣閣にその名を刻もうとしている所です。どうして護がこの機に乗じて都に接近し殺戮しないと言えましょうか。ここは軍事謀略をもって彼を取り除くべきあり、檄文をもって降伏諭しても彼を再度用いることは出来ますまい」と答えた慕容恪はこの建議採用して出征決断し皇甫真冠軍将軍別部都督任じられた。 3月皇甫真1万の兵を率い慕容恪傅顔共同呂護の守る野王侵攻した前燕軍が野王城外に至ると、呂護籠城作戦をとったので、数か月渡り包囲攻撃掛けた5月追い詰められ呂護配下張興出撃させたが、傅顔により撃退された為、城内士気はさらに下がった皇甫真配下将兵通達出して「護(呂護)は大勢の兵を失って城外逃走を図る時、必ずや包囲の手薄な箇所狙って突撃掛けるであろう我が軍兵士多く弱兵であり、武器も質が悪く数も不足している。防備をもっと厚くするのだ」と伝え、すぐに何度も督促出し、馬戦車や盾牌を検査させた。また、夜間警邏を行う者を自ら精査して任務に当たらせた。食糧尽きた呂護皇甫真陣営夜襲掛けたが、皇甫真備え十分にしていたため突破できなかった。慕容恪はこの隙に攻撃仕掛けたので、呂護の軍は大打撃受けて壊滅し呂護妻子棄てて滎陽逃走した。 軍を帰還させると、皇甫真鎮西将軍并州刺史任じられ、護匈奴中郎将兼務し并州に出鎮した。

※この「呂護を征伐」の解説は、「皇甫真」の解説の一部です。
「呂護を征伐」を含む「皇甫真」の記事については、「皇甫真」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「呂護を征伐」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「呂護を征伐」の関連用語

1
6% |||||

呂護を征伐のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



呂護を征伐のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの皇甫真 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS