呂護を征伐
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361年2月、河内郡太守呂護が反旗を翻し、東晋へ降伏の使者を派遣した。慕容恪は朝堂において対応策を議して「遠方の人が従わない時、文徳を修治することにより帰順させるという。今、護(呂護)に対しては恩詔を以って降伏させるのが適当であり、兵をもって攻め滅ぼすべきではないと考えるが、どう思うかね」と、群臣へ尋ねた。皇甫真は「護(呂護)は9年の間に3度も王命に背いています。彼の姦心を推察しますに、依然として狂暴でねじまがったままであります。それに明公(慕容恪)は今、江湘の地で兵馬を休め、剣閣にその名を刻もうとしている所です。どうして護がこの機に乗じて都に接近し、殺戮しないと言えましょうか。ここは軍事謀略をもって彼を取り除くべきあり、檄文をもって降伏を諭しても彼を再度用いることは出来ますまい」と答えた。慕容恪はこの建議を採用して出征を決断し、皇甫真は冠軍将軍・別部都督に任じられた。 3月、皇甫真は1万の兵を率い、慕容恪や傅顔と共同で呂護の守る野王へ侵攻した。前燕軍が野王城外に至ると、呂護は籠城作戦をとったので、数か月に渡り包囲攻撃を掛けた。 5月、追い詰められた呂護は配下の張興を出撃させたが、傅顔により撃退された為、城内の士気はさらに下がった。皇甫真は配下の将兵へ通達を出して「護(呂護)は大勢の兵を失って城外へ逃走を図る時、必ずや包囲の手薄な箇所を狙って突撃を掛けるであろう。我が軍の兵士は多くが弱兵であり、武器も質が悪く数も不足している。防備をもっと厚くするのだ」と伝え、すぐに何度も督促を出し、馬戦車や盾牌を検査させた。また、夜間に警邏を行う者を自ら精査して任務に当たらせた。食糧が尽きた呂護は皇甫真の陣営へ夜襲を掛けたが、皇甫真は備えを十分にしていたため突破できなかった。慕容恪はこの隙に攻撃を仕掛けたので、呂護の軍は大打撃を受けて壊滅し、呂護は妻子を棄てて滎陽へ逃走した。 軍を帰還させると、皇甫真は鎮西将軍、并州刺史に任じられ、護匈奴中郎将を兼務し、并州に出鎮した。
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