名馬「ヒコーキ」
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「ヒコーキ」(飛行機)は昭和3年ごろに活躍したと推定される実在の白馬。中頭(中部地方)産駒で、大謝名(おおじゃな)にいたと語り継がれる。昭和初期に琉球競馬の頂点に立ち、歴史に名を遺した。梅崎晴光は「流麗な脚さばきで加速すると、長い尻尾を垂直に伸ばし軽やかにフワリと舞ってみせる」と、その走りを形容。首里で行われた競馬の「シーぬ一番」(末の一番という意味。相撲の結びの大一番に相当する)で島尻のシー馬(横綱級の馬のこと)自動車小に勝った。ヒコーキの活動年代が推定されたのは、同時期に活躍した「トヌバル」が昭和3年に出走した記録があるためである。 昭和初期の沖縄神社祭の奉納競馬には、中頭はヒコーキとトヌバル、島尻は自動車小とマンガタミ馬がいて、双方どっちも負けられない勝負が、平良馬場でくりひろげられた。万余の見物人が手に汗をにぎる見事な勝負を展開した結果、優勝の栄冠は中頭のヒコーキに挙がったという。 — 『西原町史 第4巻資料編3 西原の民俗』 西原町史編纂委員会編 1990年3月 ヒコーキは『西原(にしはら)町史』や『浦添市史』『宜野湾市史』など沖縄本島各地の地誌に存在が示されていることを、梅崎晴光に発見され、各地の大会で優勝している名馬とわかり、以後の『消えた琉球競馬 幻の名馬「ヒコーキ」を追いかけて』の執筆をみるまでになった。 馬主は与那嶺真宏で、競馬にヒコーキを出場させるときには「ヨドリ与那嶺小」(ヨナミネグヮー:「(浦添)ようどれのすぐ目の前に住んでいた与那嶺の分家 」の意。小(グヮー)は分家を意味する)と名乗っていた。「ヨドリ」は「ようどれ」のことで琉球語で「夕暮れ、夕凪ぎ」を意味しており、沖縄で「ようどれ」と言うと普通は浦添ようどれ(尚寧の遺体を祭った王陵)を指している。ヒコーキの調査活動にあたり、梅崎晴光は馬主(既に他界)の娘(当時92歳)も見つけ出すことに成功し、白い馬であったことを教えられた。
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