名物蒐集と名物狩り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 20:55 UTC 版)
信長による名物の蒐集は、永禄11年(1568年)に上洛した際に、松永久秀から九十九髪茄子、今井宗久から松嶋葉茶壷と紹鴎茄子が贈られた事から始まったとする説が知られるが、実際はもっと早かったと考えられる。しかし、上洛以降に信長が名物蒐集を行ったことは事実で、特に永禄12年と13年に金銀や米・銭と交換で9点の名物を「召置」いた事が知られている。この「召置」は『信長公記』に見られる表現で、強制蒐集を意味すると理解され、永島福太郎によって「名物狩り」と称されるようになった。しかし、永島はその後の研究で『今井宗久茶湯書抜』に「信長様が御覧になるというので友閑様の元に持参した」と記されている事などから「名物茶器を入手したい信長が所有者に呼びかけて行った品評会であったのではないか」という説を唱えており、強制性について疑問を呈している。 信長の名物蒐集について谷端は、信長は審美眼を持ち合わせておらず、東山御物や珠光名物など評価の定まったものを選び取っていたとしている。一方で竹本は、茶器の著名度、特徴ある形状、旧蔵者の履歴の3点を吟味して、信長独自のものさしで選び取ったと推察している。なお、名物蒐集の目的について桑田は、家臣への論功行賞の為の資産作りであったとする説を唱えているが、中村修也は、東山御物を蒐集することで、足利将軍家の権威を自らに投影する目的があったとしている。 また名物茶器は前述の召置のほか、信長への贈答品もあった。こうした茶器の贈答は、信長への迎合・服従、敵対勢力からの降伏・和睦など政治的な意味合いを含んでいたと考えられ、特に久秀から服従の証として贈られた東山御物の九十九髪茄子や、降伏と平蜘蛛釜の譲渡を拒んだ逸話は著名である。 竹本によると、こうして信長により蒐集された茶道具の総数は伝聞資料なども含めると235点にのぼる。
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