名物裂と西陣織
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/01 21:03 UTC 版)
10年以上続いた応仁の乱(1467 - 1477年)によって、京都の町の大半が焼け、由緒ある寺社の建物などとともに、火に弱い染織工芸品の多くも地上から姿を消してしまった。このことは反面、近世に向けて新たな染織工芸を生み出すきっかけともなった。15世紀以降、明との勘合貿易により、金襴、緞子(どんす)、印金などの日本にはない技術や素材を駆使した裂が輸入された。こうした外来の裂は茶人や商人らによって珍重され、茶道具を包む仕覆(しふく)や、掛物の表装に用いられて愛用された。こうした外来の染織品を総称して「名物裂」といい、愛用したとされる人物の名をとって「角倉金襴」(すみのくらきんらん)、「珠光緞子」(じゅこうどんす)などと呼称されている。応仁の乱によって、京都の織物産業は一時期途絶えたが、16世紀になると、戦乱を避けて堺など各地へ散っていた職人が徐々に戻り、織物業が再開された。かつて、応仁の乱で西軍の本陣があった地区で織物業が復興したことから、京都の織物は西陣織と称されるようになった。
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