同人ゲームと市場の誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/24 08:16 UTC 版)
「同人ゲーム」の記事における「同人ゲームと市場の誕生」の解説
1980年代中盤になると、8ビット時代の主力機種が出揃ってフロッピーディスクも普及すると、同時期にファミリーコンピュータの大ヒットでコンピューターゲーム人口が大幅に増えた影響もあり、パーソナルコンピューターのホビーユーザー数もゲームソフトの本格的な自主流通が可能な数になって行く。 また、ゲーム業界の成長に伴い市販ソフトの開発規模が個人レヴェルから多数のスタッフの参加する大規模なものになったことに加え、当初はほぼ野放しだった市販ソフトの表現内容についてもさまざまな規制が行われるようになり、メジャーメディアである市販ソフトに対するインディーズとしてのソフト制作と流通の動きも出てくる。 最初に同人ソフトの名称を使ったのは1984年のコミケットにおける、サークル「帝国ソフト」の『人魚の涙』だとされる。ただし、最初にコミケにゲームソフトが持ち込まれたのはその前年のC25における、帝国ソフトの『ニ・コ・ニ・コ女の子パズル』(ちなみにこのソフトは、1985年にASCIIから『Carrot』というタイトルで市販された)。しかし、他の大半の同人漫画即売会では「その場で内容確認ができない」などの理由から同人ソフトは持ち込めなかった(→同人ソフトを参照)ため、1988年4月からは同人ソフトやハードが対象の即売会「パソケット」が開催されることになる(なお、ノート型パーソナルコンピューターを持ち込んで内容を確認することで、この問題は解決されている)。 通販形態での自主流通の開始時期は不明だが、前述の即売会持ち込み不可の問題もあって、初期には有力な手段であった。 1992年には、ソフト自販機『ソフトベンダーTAKERU』での同人ソフト取り扱いが始まる。市販化とは違う、商業ルート上の同人ソフト流通の先駆けである。
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