右近の死後とは? わかりやすく解説

右近の死後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 14:35 UTC 版)

安見右近」の記事における「右近の死後」の解説

右近自刃の頃に生まれた息子がおり、天正8年1580年時点10歳となっている。その頃安見家中右近後室統括しており、後室から吉田兼和祈祷依頼されている。 右近死後の交野城一族とみられる安見七郎守った右近自刃直後や翌元亀3年1572年4月松永久秀久通交野城攻めているが、元亀3年城将として新七郎の名が挙がっている。この時柴田勝家佐久間信盛織田勢の援軍を受け、交野城守り切ったこの後佐久間信盛と新七郎枚方などで重層的支配行っており、新七郎天正9年1581年)の馬揃京都御馬揃え)に河内の「取次者」として招集されるなど、織田末期まで北河内の有力領主としての地位にあった。しかしこれ以後姿が見えないことから、天正10年1582年)の山崎の戦い明智光秀方に付いて逼塞した可能性が高いと考えられる。 また近世加賀藩安見氏がいる。所伝によると、河内白壁(キサキベの誤訛か)城主安見右近信国松永久秀に誘殺されその子隠岐勝之は豊臣秀吉仕えて伊予国宇摩郡一万石を領しその後前田利長仕える。その跡は長子・元勝が継ぎ、その元勝は銃術に長じていたとされる永山近彰編『加賀藩史稾』尊経閣、1899年)。信国の子・勝之は、安見炮術の祖である安見右近丞一之と同一人物とみられ、伊予国宇和郡には安見右近がいたという伝承がある(『清良記』『宇和旧記』)。ただし安見一之炮術としての活動文禄4年1595年)には見られ(「立花文書」)、右近の子炮術大成したとするには早すぎることから、安見一之仕官のため、逼塞していた安見氏の後裔偽称した可能性も残るとみられる。 他にも上杉景勝重臣直江兼続配下安見氏がおり、兼続の娘に婿入りした本多政重加賀前田家に移る際、それに同道している。

※この「右近の死後」の解説は、「安見右近」の解説の一部です。
「右近の死後」を含む「安見右近」の記事については、「安見右近」の概要を参照ください。

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