取引に対するイギリスの反応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 05:44 UTC 版)
「アメリカ独立戦争における外交」の記事における「取引に対するイギリスの反応」の解説
和平の条件の中でも特にアメリカとの条約に提案されたものは、イギリスの中に政治的な嵐を引き起こした。北西部領土とニューファンドランドでの漁業権を譲渡すること、および特に各州がないがしろにするであろう条項によってロイヤリストを明白に見捨てることは議会で糾弾された。最後のポイントは最も容易に解決された。戦争を続けないことで出費を抑えられるイギリスの税収入がロイヤリストの補償に使うことができることになった。それでも1783年2月17日とさらには21日、議会で条約に反対する動議が成立し、2月24日はシェルバーン伯爵が辞任して、5週間というものイギリス政府は指導者が不在の状況が続いた。最終的にロッキンガム侯爵を前年に選んだものに類似した解決案が見つかった。政府は名目上ポートランド公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンクによって指導されるものとし、2人の国務大臣はチャールズ・フォックスとこともあろうにノース卿が引き受けることになった。オズワルドは新しい交渉者デイビッド・ハートリーと入れ替わることになったが、アメリカ人は条約が大西洋を2度も渡って大陸会議に承認されなければならないこともあって、条約のいかなる修正も認めることを拒んだ。それ故に1783年9月3日、パリのハートリーのホテルで、前年の11月にオズワルドとの間に合意されていた条約に正式な署名が行われた。ヴェルサイユではフランスおよびスペインとの間に別の条約が締結された。
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