博多湾鉄道汽船による計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 08:46 UTC 版)
「筑豊電気鉄道線」の記事における「博多湾鉄道汽船による計画」の解説
九州電気軌道の子会社である九州土地興業では、九州電気軌道が福岡延長のため取得していた92,446坪の土地を1937年(昭和12年)5月29日に博多湾鉄道汽船に譲渡した。 土地を譲り受けた博多湾鉄道汽船は1924年(大正13年)から1925年(大正14年)にかけ新博多(のちの千鳥橋) - 宮地岳間(通称「貝塚線」、現・西鉄貝塚線)を開業させていたため、この路線の延伸計画として「福門連絡鉄道」の名で宮地岳 - 折尾間の鉄道敷設免許を出願した。この際当時社長であった太田清蔵貴族院議員がその資金を得るため同社所有の粕屋線(現・JR九州香椎線)を鉄道省へ売却する要請を出したが、この時鉄道大臣だった小川平吉に賄賂を贈ったことが後に明るみに出て(いわゆる五私鉄疑獄事件)会社の信頼は一気に失墜する。さらに、1937年7月に日中戦争が勃発したことで臨時資金調整法が施行され、鉄道敷設のための資金調達はいよいよ困難となった。ちなみに計画では宮地岳より見坂峠、三郡山地を越えて飯塚へ出るルートであったが、九州電気軌道の計画ではこのルートの東側を並行する形であった。 その後、1941年(昭和16年)10月に「筑豊電気鉄道」の名で黒崎 - 福岡間59.6kmの鉄道敷設を出願したが、翌年戦時体制(陸上交通事業調整法)に対応するため博多湾鉄道汽船、前述の九州電気軌道など計5社が合併、西鉄が成立した時に、鉄道省より前身会社からの線路延長事業の見直しを指導され、鉄道敷設申請書の返付を受けたため実現せずに終わった。見直しを指導された区間はこの区間のほか、小倉 - 行橋間(新設)、土井 - 新飯塚間(新設)、雑餉隈 - 博多間(雑餉隈線)、大牟田 - 熊本間(大牟田線延伸計画)があったが、いずれも実現せずに終わっている。
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