博多湾進入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 16:00 UTC 版)
東路軍は捕えた対馬の島人から、大宰府の西六十里の地点にいた日本軍が東路軍の襲来に備えて移動したという情報を得た。東路軍は移動した日本軍の間隙を衝いて上陸し、一気に大宰府を占領する計画を立てると共に、直接クビライに伺いを立てて、軍事のことは東路軍諸将自らが判断して実行するよう軍事作戦の了承を得た。こうして当初の計画とは異なり、江南軍を待たずに東路軍単独で手薄とされる大宰府西方面からの上陸を開始することに決定した。 対馬・壱岐を占領した東路軍は博多湾に現れ、博多湾岸から北九州へ上陸を行おうとした。しかし日本側はすでに防衛体制を整えて博多湾岸に約20kmにも及ぶ石築地(元寇防塁)を築いており、東路軍は博多湾岸からの上陸を断念した。日本軍の中には伊予の御家人・河野通有など、武勇を示すために石築地を背に陣を張って東路軍を迎え撃った者さえもいた。後に河野通有は「河野の後築地(うしろついじ)」と呼ばれ称賛された。 この石築地は、最も頑強な部分で高さ3m、幅2m以上ともされており、日本側が守備する内陸方面からは騎乗しながら駆け上がれるように土を盛っており、元軍側の浜辺方面には乱杭(らんぐい)や逆茂木(さかもぎ)などの上陸妨害物を設置していた。『予章記』によれば、海上から見た博多湾は「危峰の江に臨むが如し」 外観であったという。 史跡元寇防塁に指定された7地区 今津の元寇防塁福岡市西区今津 西新の元寇防塁福岡市早良区西新 生の松原の元寇防塁福岡市西区小戸 今宿の元寇防塁福岡市西区今宿 姪浜の元寇防塁福岡市西区小戸 地行の元寇防塁福岡市中央区地行
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