協定作りと砦造り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/22 11:38 UTC 版)
「西部戦線 (アメリカ独立戦争)」の記事における「協定作りと砦造り」の解説
1777年の戦火拡大に続いて、西部辺境のアメリカ植民地人は大陸会議に保護を願い出た。大陸会議の委員会は調査の後に、1778年初め、大陸軍の2個連隊を西部に駐屯させることを推奨した。また、アメリカ開拓地にインディアンが侵略してくることに対して砦の防御線が効果を発揮していないため、委員会はオハイオ川のインディアン居留地側に砦を築くように要求した。最初の新造砦は大陸軍がデトロイトに対する遠征を行うことができるようになることも期待されていた。 オハイオ地方に砦を築くために、アメリカ植民地人はデラウェア族インディアンの承認を求めた。1778年9月、アメリカ植民地人はデラウェア族と交渉しピット砦の協定を結んだ。これでタスカラワス川沿いにローレンス砦を築くことが可能になった。しかしこの計画は不首尾に終わった。先の協定の交渉相手であったデラウェア族の酋長ホワイトアイズが、1778年にアメリカの民兵に殺害されたということだった。ホワイトアイズのライバルだったキャプテンパイプが突然アメリカ植民地人との同盟を捨て、西のサンダスキー川に移動し、そこでデトロイトのイギリス軍からの支援を受け始めた。この時点で、東のペンシルベニアやニューヨーク植民地北部での戦闘が過熱し、大陸会議はデトロイトに対する作戦に人を割けなくなってきた。ローレンス砦は1779年に放棄された。
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