卒去後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/28 14:59 UTC 版)
1837年1月31日諡号を「栄僖」に追贈。1864年9月22日興宣大院君は南延君を不祧の祖先 であるとして、諡号を「忠正」に改号。京畿道漣川郡に埋葬されて、喪服期間後に風水師が興宣大院君に子孫から帝王が出る場所があると進言した出来事で忠清南道礼山郡伽倻山の石塔に移転された。後日に高宗により伽倻山に報徳寺が建立された。1865年2月9日宗廟に純祖配享功臣として遺棺と位牌が設置された。ドイツ連邦商人エルンスト・ヤーコプ・オッペルトは1866年3月27日忠清南道瑞山市海美邑鳥島に接近して、3月28日忠清南道唐津市大湖芝面調琴里に船舶して、金泳駿・金膺集・鄭在箕に筆談して交渉したが退去勧告に至って挫折した。8月22日仁川広域市江華郡江華邑月串里に船舶して李寅夔に交渉したが再挫折した。そのためフランス帝国宣教師スタニラス・フェロンに会い、貿易のために開国するよう仕向けるべく、南延君の遺骨を掘り出し、朝鮮より持ち去る計画を立てた。アメリカ人フレデリック・H・B・ジェンキンスの資金と協力を得て、1868年4月30日に出発した。南延君墓に到着して発掘を試みたが、副葬品を毀損したが、遺骨には巨大な切り石に阻まれて、計画は失敗した。帰路に軍卒に巡り合わせて、朝鮮から脱出した。この事件は興宣大院君を激昂させて、鎖国・攘夷政策を強化するに至った。南延君墓は1989年12月29日忠清南道記念物第80号に指定された。
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