千葉港の起源
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 14:17 UTC 版)
鎌倉時代には千葉常重(鎌倉幕府を開いた源頼朝の重鎮であった千葉常胤の父)が1126年(大治元年)に亥鼻(千葉県千葉市中央区亥鼻町)に居館(亥鼻城)を構えており、都川周辺は亥鼻城址として栄え、下総国(令制国上の千葉県千葉市)の地方船着場として都川河口(現在の千葉市中央区寒川町付近)を下総国の「湊」として利用されていたことが起源とされている。 下総国の港から西へ東京湾を渡った相模国金沢(現在の神奈川県横浜市金沢区)の称名寺には、鎌倉時代の千葉寺や千葉市の大日寺で書写された仏教関係の文書が多数残されている。千葉寺は千葉の町並みの南に位置し、奈良時代に創建され平安時代末期の経塚がある古刹で、大日寺は町並みの北端に位置し千葉氏の墓所があった寺院である。千葉の寺院で写された文書が東京湾対岸の称名寺に多数残されているのは、僧侶が東京湾の水運を使って相模国と下総国の間を頻繁に往来していたためと考えられる。 室町時代の千葉の様子を伝える「千学集抄」には「結城浦」という湊の名で残されている。結城浦は「源平闘諍録」にある説話『結城浜の戦い』があった場所でもある。結城浜近隣に位置する都川河口の入り江付近にあり、下総国の市場(現在の千葉市中央区市場町付近)と都川でむすばれ、室町時代の「千葉の湊」としての役割を果たしていたと考えられる。
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