北海におけるフランスの作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 00:57 UTC 版)
「普仏戦争の海戦」の記事における「北海におけるフランスの作戦」の解説
北海のフランス艦隊司令、フーリション(英語版)中将にとっても、事態は同様に見込みのないものであった。彼は充分な海図さえ持っていなかったため、それをデンマークで購入しなくてはいけなかったのである。エルベ川とヴェーザー川の河口は機雷と防鎖で守られており、ドイツ人の水先案内人は勤務を拒否したので、半完成状態のヴィルヘルムスハーフェン基地を攻撃することはできなかった。 フランスの「北海戦隊」は装甲フリゲート「マニャニーム(英語版)」、「プロヴァンス(英語版)」、「エロイーヌ(英語版)」、「クーロンヌ(英語版)」、「アンヴァンシブル(英語版)」、「ヴァリュリューズ(英語版)」、「ルヴォンシュ(英語版)」、装甲コルヴェット「アタロント(英語版)」、コルヴェット「シャトー・ルノー」、「コスモー」、通報艦「ルナール」と「デクレ」を伴って8月11日、北海に到着した。北海沿岸に対する海上封鎖が宣言されたのは、8月25日のことである。フランスの戦隊はほとんどの場合、イギリス領ヘルゴラント島の近海に留まった。双方ともに偵察艦を派遣していたが、8月24日にヴェーザー川の河口で装甲艦「アルミニウス(英語版)」が「アタロント」と遭遇し、影響もなく終わった短時間の砲戦に及んだのみであった。 フランス海軍はほとんど陸地を攻撃できなかった。それに適した艦艇がクリミア戦争の後、退役していたか修理中であったためである。フランスは9月までしか、いずれにせよ不完全な海上封鎖を維持できなかった。冬に備えて艦隊を撤収させなくてはならなかったのである。また、各艦の兵員はフランス国内における戦略予備としても必要とされていた。9月10日、フランスへの撤退をもって北海における海上戦争は終わった。しかし同海域の哨戒は引き続き実施されており、北ドイツ連邦海軍に防備の維持を強いている。
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