北山征伐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 08:06 UTC 版)
生年は1390年、1391年、1393年など諸説ある。曾祖父が先今帰仁城主で、1322年に北山王怕尼芝に滅ぼされた。先今帰仁城主の子で、山田城主となった読谷山按司(山田按司)に嗣子がなく、兄弟の伊波按司の二男が養子となって読谷山按司を継いだ。その子が護佐丸と伝えられる。 尚巴志が1416年に北山征伐の軍を興すと、有力按司の1人として連合軍に合流した。王府史書によると、20歳代にして第2軍800人の総大将に抜擢された護佐丸は、海路を通った尚巴志の本軍と分かれて陸路、今帰仁城に向かった。本軍と北山王攀安知が城外で交戦し、城内の本部平原が寝返ると、呼応して今帰仁城に突入し、北山王国を滅ぼした。 尚巴志は、平定した北山の宣撫のため、先今帰仁城主の血筋を引く護佐丸を、北山守護職の要職に任じた。また山田城から南西に4km離れ、良港を備えた座喜味城の築城を命じたが、これは北山を監視する戦略上の要所でもあった。城は赤土の軟弱な台地に建てられたが、護佐丸は旧居城の山田城を崩して石材を運び、石積みの工夫によって強度と曲線美を備えた城壁を築いて、築城家としての声価を高めた。築城の際、北山守護職として影響力を拡大した奄美群島や慶良間諸島から、労働者を駆り出したと伝えられている。尚巴志は護佐丸の叔母にあたる伊波按司の娘を妃とし、姻戚関係を強めた。 1422年、第一尚氏王統の第2代国王となった尚巴志は二男尚忠を北山監守に任じ、護佐丸を座喜味城に移して、北山の統治体制を堅固にした。これには、尚巴志が護佐丸の勢力の拡大を警戒して、北山から転封したとの見方もある。護佐丸は座喜味城に18年間居城し、中国や東南アジアとの海外交易で、黎明期の第一尚氏王統の安定を経済的にも支えた。 座喜味城築城の人夫を奄美大島から連れてくる際に、それが人さらいであり強制的であったため「護佐丸がチューンドー(来るぞ)」といえば泣く子も黙ったという伝承が残っている。
※この「北山征伐」の解説は、「護佐丸」の解説の一部です。
「北山征伐」を含む「護佐丸」の記事については、「護佐丸」の概要を参照ください。
- 北山征伐のページへのリンク