北アフリカ・近東への旅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 06:25 UTC 版)
「ハインリヒ・バルト」の記事における「北アフリカ・近東への旅」の解説
バルトは、北アフリカと中東への大旅行を計画し、父親に出資の承諾を取り付けた。1845年1月の終わりに両親を家に残して、まずはロンドンへ行き、そこで2ヶ月かけてアラビア語を習った。また、大英博物館を訪れたり、大英帝国領事の保護を旅の間に受けられる保証を取り付けたりした。ロンドンにいる間、駐英プロイセン大使、クリスティアン・フォン・ブンゼン(英語版)にも面会した。大使はのちにバルトの中央アフリカの旅において重要な役割を演じることとなる。バルトはロンドンを発つとフランスとスペインを横断して、8月7日、ジブラルタルからタンジールへ向かうフェリーに乗った。このときはじめてアフリカの地を踏んだ。タンジールから陸路で北アフリカを横断し、エジプトに到着すると、ナイル川をさかのぼってワジハルファへ向かった。そこから砂漠を超えて紅海に面したベレニース港(ベレニケ・トログロディティカ)へ行った。エジプトでは強盗に襲われ、負傷したが、その後彼はシナイ半島を横断して、パレスチナ、シリア、小アジア、トルコ、ギリシャを渡り歩き、古代の遺物が調査されているところならどこへでも行った。バルトが両親の待つハンブルクの家へ戻ったのは1847年12月27日のことで、旅に出てからおよそ3年がたっていた。しばらくの間、バルトはハンブルクで私講師の職に就く一方で、旅で経験したことを本にまとめた。『地中海沿岸諸国漫遊記』( 原題:Wanderungen durch die Küstenländer des Mittelmeeres )と題した彼の本の第一巻は、1849年に出版された。二巻目の出版も企図されていたが、出版はされなかった。
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